ショータイム

狂喜乱舞するブログ

2023年 買って良かったもの10選

流行に乗りました。普段のブログ内容とはぜんぜん関係ないけど泊まりがけの遠征とか行くときにあったら便利なものも含まれている。

 

① 折りたたみ日傘 Wpc. IZA Light&Slim

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とにかく軽い日傘。軽いし細いし広げればそれなりの大きさになるし畳むときにポキポキ折る必要もないし、強風でひっくり返りやすいことを除けば取り扱いのしやすさは日傘界トップクラスではないだろうか。晴雨兼用なので日差しでも雨でも何かしらヤバそうなときはとりあえずこれをカバンに放り込んでおけば大丈夫。完全遮光。内面が黒なのは必須条件として、外面も黒だと熱くなりそうだな…と思ってオフカラーを使っている。そのおかげかどうかはわからないが、夏場はこれでかなり暑さが軽減される。

手が届きやすい価格帯の日傘はいくらシンプルなデザインでもなんとなく若干はフェミニンが残っていることが多く、私はそれが本当に嫌いで、でも暑さには勝てないので日傘業界への悪口を言いながら渋々若干フェミニンの香りが残る日傘を使っていたのだが、これは男性をターゲットにして作られたシリーズということもありフェミニンの残り香がほぼ消えていて非常に良い。Light&Slimは税込み4620円。他にも若干重くなるがとにかくコンパクトなやつとか、自動開閉機能つきのやつとか、長傘とかが4000~5000円前後で売っている。あとモンベルのやつとかも良さそうだなと思っている(浮気)

 

② SQUSE ME コガオシェードペン

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ペンシルタイプのシェーディング。遠征先にメイクブラシを持って行きたくないが一応シェーディングもしたいという強い意思のもと探し出して買ったところ、普通にめちゃくちゃ便利なので一軍コスメ入りした。特に顔の中心部に入れるようなシェーディングはこのタイプが一番やりやすいんじゃないだろうか。影が一番濃くなって欲しいところにビャッと引いて指かスポンジか何かでザッとぼかすだけでいける。旅行に持っていくにもペンシルタイプならパウダーよりも割れにくいしブラシもいらないしかさばらない。二色展開。私はクールベージュを使っている。世の中のシェーディングアイテムというものはだいたいに黄みが感じられるのだが、このシェードペンのクールベージュは黄みがかなり抑えられていて助かる。

 

③ ELECOM コンパクトスマホスタンド

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スマホスタンドという名前ではあるが11インチまで対応している。iPadくらいなら余裕。畳むと完全に平べったくなる。スマホより少し小さいくらいのサイズ感だし超軽い。その上10インチ級のタブレットを置いても普通に使う分には倒れる気配もなく、細かい角度や高さの調節も可能で、この小ささ軽さからは信じられないくらいの安定感と機能性を誇る。遠征先のホテルではこれでiPadを立ててYouTubeTVerその他諸々を見ている。舞台遠征なんかだと金曜から行って日曜に帰るみたいなことをするので、YouTubeを金曜日に更新するグループを追っているオタクとしてはタブレットスタンドがあるとかなり快適。家でも使っている。ただ職場で上司が色違いを使っており、私だけがなんとなく勝手にちょっと気まずい。

 

Marimekko ファブリックバッグ

www.marimekko.jp

なんか別に説明もいらないレベルの知名度な気がするけどやっぱり便利だったマリメッコの薄いトートバッグ。畳むとかなり小さくなるし、軽いし、大きさもそこそこあるし、そこそこ丈夫で荷物が多すぎなければメインバッグとして使えるので、遠征の際には畳んでリュックに入れていき、現地でメインバッグとして使っている。他の柄もほしい。

 

Panasonic フェリエ フェイス用 ES-WF41

panasonic.jp

顔用の電動シェーバー。脱毛で自分では手の届かないところの毛を剃ってもらうときに使われていたシェーバーと同じものを買った。確かに肌表面を撫でていくだけできれいに剃れる。肌が乾いたままでもサッといける。指とか顔とか面積が狭いところの毛を剃るのに便利。飛行機に乗るときも、まあ刃が小さいカミソリなら電動じゃなくても機内持ち込みできるとはいえ、電動カミソリだと確実に大丈夫なので保安検査でヒヤヒヤしない。

 

⑥ rom&nd ハンオールブロウカラ

www.cosme.net

別にこういう「買って良かったもの」みたいなところに載せる必要もないというか、特に誰かが紹介するフェーズでもないというか、50周遅れくらいで逆に書いた方がいいみたいなレベルというか、とにかくもう定番すぎてわざわざまとめるようなものでもない気がするけど、その圧倒的な力を前にして書かざるを得なかったロムアンドのアイブロウマスカラ。これの01を使っているのだが、初めて塗ったときあまりにも便利過ぎてびっくりした。私は眉毛がかなりしっかり生えているので、最悪これをザカザカ塗るだけで眉メイク完成しました感が出る。職場にはできるだけ化粧をしていきたくないが一応人前に出る予定があるので眉毛くらいは整えたいみたいな日に最強の威力を発揮する。

 

ダイソー パソコン用テーブル

パソコン用テーブルjp.daisonet.com

ダイソーで税抜き500円。コの字型の非常にシンプルなモニター台。木製で塗装も何もされておらず、不愛想だが頑丈で便利。大きさといいデザインといい値段といい、何もかもがちょうどいい。布団の他は無印の折りたたみローテーブルと薄いシェルフが限界みたいな激狭変形ワンルームに住んでいるのだが、パソコンはデスクトップ派かつ割とかさばるモニターを使っているため、無印の折りたたみローテーブルの上にこれを置いて収納とスペースを確保している。下の空間に想定されているのはおそらく確実にキーボードの収納だが、キーボードはモニターと一緒に無理やり台の上に置いて、下の空間には同じくダイソーの収納ボックスを入れて引き出しにした。これを買う前はテーブルの上が常時ひどいことになりすぎていて、今も割とひどいことに変わりはないのだが、それでも圧倒的にマシになったのでもっと早く買えばよかった。

 

⑧ 乾燥野菜 私の楽ベジ(乾燥野菜ミックス)

item.rakuten.co.jp

出来るだけ手を抜いて野菜を食べたいという怠惰な独身一人暮らし社会人が辿り着いた選択肢の1つ。これを職場に持って行って、昼休みにはインスタント味噌汁にひとつまみ入れて食べている。シャキシャキ…になるまでは戻らないが、なんとなくコリコリしておいしいくらいの味噌汁の具になる。コスパ良。

 

⑨ Anker モバイルバッテリー PowerCore III 5000

Anker PowerCore III 5000www.ankerjapan.com

先代のモバイルバッテリーが死にかけになってきたので買い替えた。ポケットに入れてもそんなに邪魔にならないくらいのサイズ感だが5000mAhの容量がある。このくらいあれば地図を見ながら丸一日歩き回っても大丈夫。今年はたびたび遠方へ泊まりがけで舞台を観に行ったり何だりしたので、このモバイルバッテリーもかなり使った。4色展開。私が買ったのは白いやつ(黒いカバンの中でも見つけやすいので)。この容量にしては小さくて軽くて、難点としては強いて言うならケーブルが一体になっていないことくらいしかないが、これを使うようなとき(遠征)はだいたいACアダプターとケーブルも持っているので何の問題もないね〜

遠出しないときはmaxellの極薄モバイルバッテリーを使っていて、こちらもかなり良いのだが今年買ったものではないので割愛。

 

⑩ NARS ライトリフレクティングセッティングパウダー プレスト N ミニ

www.narscosmetics.jp

言わずと知れた名品、NARSのリフ粉のミニサイズ。ガチで小さい。測ってみたら最大辺6cm強、厚みは1cm強程度だった。サイズ感的には大きめのシングルアイシャドウ、小さい多色アイシャドウ、小さめのチークくらい。余裕で手のひらに収まる。家では普通のサイズを使っているのだが、旅行の際にはこのミニサイズを持っていく。マジでかさばらないので非常に助かる。パフ等を入れるスペースはないが、普段からリフ粉は使い捨てスポンジでつけているので旅行先でもそれで問題ない。

 

以上です。来年も元気に消費活動するぞ~

星降る夜に出掛けよう 観劇メモ・感想

舞台星降る夜に出掛けよう(2023/6/12-21 南座、10/2-28 大阪松竹座)の観劇メモです。

www.shochiku.co.jp

このリンクは南座

 

目次

 

 

構成・演出

短編戯曲3編からなる構成。サン=テグジュペリの「星の王子さま」と、ジョン・パトリック・シャンリィの短編戯曲集「お月さまへようこそ」から「喜びの孤独な衝動」「星降る夜に出掛けよう」の2編を抜粋。プリンシパルは3名で、各短編に2人ずつが出演する(全体を通して1人が2役演じる)。

 

星の王子さま(髙木雄也、髙地優吾)

・幕が上がると夕暮れの中飛行機が砂漠の上をブーンと飛んでいく(飛行機に棒がついていて、人が持って舞台を横断している)。飛行機は舞台の端から端まで横断するが、舞台の中程で何やら挙動が怪しくなって煙を出し始め、煙を引きながら袖に消えたところでドンガラガッシャンと音がする。どうやら墜落したらしいが飛行機が墜落したとは思えないくらい音が軽い(まあだからパイロットは生き残れたのかもしれん)。

・セットは舞台後方に砂丘が描かれた板?が置いてあるのみ。あとは全て照明と演者の体のみによって空間が表現される。舞台に砂漠のような模様が投影されており、舞台後方の砂丘は遠くに連なっているように見える。空間の奥行きがすごい。

星の王子さまパートは髙木雄也の独白から始まり、この独白で「星の王子さま(原作)をそのまま舞台にしたわけではない」と察する。「語り手が六年前に出会った少年のことを聞き手に話す」という形式は原作の通り。物語の展開自体は原作のエピソードを細かく切り刻んで抜粋した上で物語として成立するように繋げたような作りになっている。

・原作の王子さまは語り手の質問に全然まともな答えを返さないが、この舞台の王子さまは「どこから来たのか」と尋ねれば小惑星の名前まで素直に答えてくれる(地球から見える赤くて大きい星の隣にある黄色くて小さい小惑星330から来たらしい)。

・王子さまは白くて長いマントを羽織っている。このマントの取り扱いは玉様に徹底的に指導されたらしく、確かにそれらしい捌き方をしていた。というか特に星の王子さまの王子さまには舞台上の所作を叩き込まれた痕跡が多めに見受けられた。マントの下は銀色で多少変わった形の王子様的な衣装だが、なぜか背中がガバ開きだった なんでだよ

・原作では語り手は飛行機のもとに留まってエンジンの修理を試みる(最終的に成功して帰還できる)が、舞台の語り手は最初から飛行機を直さない。王子さまと出会ったのも、砂漠を歩き続けた末に途方に暮れて横たわっていた夜明けの出来事である。

・語り手と王子さまが出会ってから急ピッチで「王子さまがこの星のものではない」ことを示す会話が展開される。王子さまは渡り鳥に助けられながら星々を渡り、6番目に地球にたどり着いたらしいが、地球は王子さまがいた星よりも桁違いに大きいので重力に負けていた。また王子さまは時間という概念を持ち合わせておらず、「夕陽を見るためには日が沈むまでの時間を待たなければならない」という語り手の言葉にあまりピンと来ていなかった。確かに時間というのは1日歩いたくらいでは昼も夜も変わらないようなデカい星の上でなければ生まれない概念かもしれない(王子さまは老いとも無縁そうだし…)。このあたりの会話は公演を重ねるごとに明らかに演者の解釈が深まっているのを感じた。

・語り手と王子さまが会話をするうちに歌ったり踊ったりし始める。砂漠のど真ん中で体力を無駄に消耗すな

・おそらくカナリヤ(曲)を劇中に入れるために語り手にカナリヤの歌が好きという設定が付与されている。カナリヤは語り手と王子さまで歌う。このときは舞台に投影された砂漠の模様が消えて赤い照明が中心の演出がされている。

・カナリヤを歌い終わった2人「喉が渇いた!」「僕だってさっきから喉がカラカラだよ」あんなに踊ったり歌ったりするからだよ

・アンサンブルが操る人形によってキツネやヘビの描写も差し込まれる。

・語り手と王子さまは1週間ほど砂漠を歩き続けたようで、その末にやっと井戸を見つける(実際に人間が水なしで生きられる期間を思い出してはいけない)。井戸は舞台上に投影された青い照明、桶はパントマイムで表現される。

・水を飲んだ後王子さまは語り手に「あっちに歩いていくと砂漠の民に出会うかもしれない」と伝え、更に「ぼくはそろそろ星に帰らないといけない」と言い出す。その後すぐ眠った王子さまに語り手が語りかけ、一通り歌い終わると語り手も寝る…と思ったら王子さまが起きる。どうやら寝たフリをしていたらしく、王子さまは語り手が寝ている間に自分の星へ帰ってしまう。ヘビに噛まれることで帰るのは原作と同じ。

・原作では王子さまは1年ほど地球で旅をしていたが、舞台では1週間であり、ずっと「(語り手を)助けるようにと空から声が聞こえていた」とのことで、語り手を助けるために地球に来たらしい。語り手と別れる前に王子さまが伝えた通り、語り手は王子さまが帰った後三日三晩歩き続けた末に砂漠の民に救出される(この話はサン=テグジュペリリビア砂漠への墜落の話に似ている)。

・王子さまいわく「地球では体が重い もといた星では鳥も人も雲もあまり変わらなかった」らしく、これは地球がデカくて重力が大きいからという説明が語り手からされている(そりゃそうだ)。原作でも王子さまは自分の星から地理学者のいる星までは(おそらく)渡り鳥の旅を利用して生身のまま旅をしたが、地球から自分の星へ帰るときは毒蛇の力を借りて重い体を捨てていく(これは舞台も同様)。なぜ地球から帰るときだけは体を捨てなければならなかったのか、原作では「星が遠すぎて重い体を運んでいけない」との説明しかないが、舞台ではこれを重力でより具体的に説明している? 星の王子さまパートは基本的に原作のエピソードや台詞を組み立て直して作られているが、ところどころこうしてオリジナルの設定や台詞が差し込まれている。

 

つなぎ①

星の王子さまが終わるとアンサンブル勢が出てくる。話と話の繋ぎにはアンサンブル勢のダンスか演者の歌が使われており、星の王子さまと喜びの孤独な衝動の繋ぎはゴリゴリのコンテンポラリーダンス。終盤では舞台上に月が投影されて、アンサンブル勢が一列になって月の上を歩き、舞台奥からジムとウォルターが談笑しながら歩いてくる。月が欠けていって舞台が暗くなり、次に照明がついたときには場は喜びの孤独な衝動に変わっている。


②喜びの孤独な衝動(髙木雄也・中山優馬

・脚本は訳本通り。

・ジム(中山優馬)とウォルター(髙木雄也)が舞台の縁にうつ伏せに寝転がっており池を見ている(客席が池となる位置関係)。照明は2人を中心として狭い範囲に投影された水底のような青い照明とピンスポのみ。セットもなく、初めは遠くから雑踏の音が聞こえているがすぐに消える。照明の範囲外に無限に広がる空間が存在する気配はするが、ジムとウォルターがいるのは2人がいる限られた領域だけという雰囲気。

・開放的かつ閉鎖的な空間で、人の入れ替わりもなく2人の会話のみによって物語が進行する。脚本自体がコミカルに作られており、2人の会話の間とテンションの差異が絶妙なこともあり、会場の笑いを誘っていたが、会場が笑えば笑うほどウォルターの孤独な立場が強調されていく。

・松竹座公演では南座公演よりも会話が砕けており、2人の立ち位置と見ているものの差がよりわかりやすくなっていた。

・最後にウォルターを呼ぶ人魚の声は録音された女の声で実体は出ない。これによって人魚が実在するのかどうかわからなくなる。

 

つなぎ②

喜びの孤独な衝動の流れで髙木雄也が雨(安全地帯)を歌う。これは歌詞からして喜びの孤独な衝動のエンディングの位置になっていると思う。雨が終わると暗がりに置いてあったキーボード(喜びの孤独な衝動の直前に出てきていた)で中山優馬ビリー・ジョエルのHonesty(訳詞)を弾き語りする。これは喜びの孤独な衝動のエンディングとも、星降る夜に出掛けようのオープニングともとれる。

 

③星降る夜に出掛けよう(中山優馬、髙地優吾)

・星降る夜に出掛けようは「女友達との表面的な友情に辟易しているやせ細った女」と「ドストエフスキーみたいな鬱屈とした男」の二人芝居だが、中山優馬が演じるにあたって「女」が「青年」になっている。ただし脚本はほぼ訳本通りで、女性口調で訳されていたものが今回の舞台では男性口調、一人称は「僕」に変更、「君は恋愛を求めているの?」「そう」「じゃ、僕に求めても無駄だよ」というやりとりが消えている程度の変更しかされていない。女性的な台詞が残っており、女友達は女友達のままなので、もとの脚本の「大して仲良くないし互いに好きでもないけどズルズルと行動を共にしている女同士の女子会」の雰囲気がそのままになっている。

・始まりでは青年と女友達だけが舞台上にいてテーブルを囲んでいる。女友達は4人で、アンサンブルメンバーが体部分のぬいぐるみとお面をつけて動きを演じており、青年に対してリアクションもとる。元の本では女友達は「人形」との指定があるが、その人形が青年の発言に合わせて動くことによって青年の台詞に現実味が増している。女友達は女らしさを誇張した緩慢な動作をしている。セットは椅子が5つとコップの置いてある小さいテーブルのみで、舞台上には照明で窓のような模様が投影されている。

・男の方は青年が話しかけるときに初めて出てくる。男は四つん這いになった妖怪か幽霊の背中に座って足を組みタバコを吸っており(パントマイム)、テーブルも妖怪か幽霊が役割を果たしている(跪いた妖怪か幽霊が両手を男に差し出してテーブル?灰皿?にしている)。

・青年が友達を箱に詰めて舞台袖へ蹴り飛ばす場面では人が箱を持ってきてくれるし、青年が友達の一人を掴んで箱に入れると他の友達は自ら箱に入っていく(人形をつけたアンサンブル勢が仮面とぬいぐるみ部分を脱ぎ捨てて箱に入れる)。ここで椅子も撤去される。女友達が去ると窓のような照明は消えて全面青基調の照明になる。

・青年と男が星降る夜に出掛けると妖怪や幽霊は消え、舞台上から客席までの天井や壁に設置された星球がつく。特に1階席から観たときには本物の星空のような奥行と広がりが感じられて迫力があった。

シャンパンを開けて注ぐ音は録音で、演者の動きと音で実際にそこにあるかのように見せている。

・最後に髙木雄也が「僕も仲間に入れてよ!」と入ってくるがめちゃくちゃ唐突すぎてちょっと面白い(松竹座ではこの台詞がなくなっており、特に何の台詞もなくヌルッ…とログインしていた)

・女が青年に変更され、「君は恋愛を求めているの?」のくだりが消えたことによって、男の「僕は女性と暮らす努力をしてみた」から始まる台詞の土台がなくなるので、この台詞の扱いが難しそうだなと思った。

・星降る夜に出掛けようは女友達への罵倒から始まるし、女友達を始末するシーンが衝撃的だが、おそらくこの女友達というのは単に「自分が自分の人生と真剣に向き合わなかった結果生み出してしまった、ただただ自分が浪費されるだけの何か」の象徴であって、別に必ずしも女友達である必要はないのだろう。

 

歌と踊り

パンフレットに記載の演目では3つの短編の後に「歌と踊り」が書かれている。1人1曲ずつ披露する。全員和訳詞。

中山優馬:The Stranger(ビリー・ジョエル

②髙木雄也:Mack the Knife(クルト・ワイル)

③髙地優吾:The Saga of Jenny(クルト・ワイル)

その後3人で情熱(安全地帯)を歌い、そのままカーテンコールに入り幕が下りる。

 

所感

・とにかく美しい舞台だった。人間が1人で動かせないようなセットは星の王子さま砂丘くらい、小道具も必要最低限という非常に簡素な舞台上で、照明と演者の動きで空間の奥行きや広がりが的確に表現されていた。劇中全ての場面が美しかった。

・1階で観たときと2階・3階で観たときとでは作品の印象がかなり違った。舞台上に何らかの模様が投影されることが多いのだが、1階から観たときにはこれが見えない。その代わりに似たような照明の効果は感じられる(例:舞台上に月の模様が投影されているとき1階席からはそれが全く見えないが、代わりに演者が月明かりに照らされているように見える)。星降る夜に出掛けようの最後には無数の星球で星空が表現されるが、この星空の迫力が凄まじく、特に1階席から観たときには本当の星空かのような無限の奥行きと広がりを感じられた。

・確実にミュージカルではないのだが、単にストレートプレイと呼ぶのも違う気がする。ストレートプレイとかミュージカルとかショーとか、そういった舞台上で展開される代物を全て繋ぎ合わせたような印象を受けた(混ぜたのではなく繋ぎ合わせている)。

南座(6月)で観たときは演劇というよりも難解なコンテンポラリーダンス作品を見たような感覚で、場面の美しさと抽象的概念を楽しむ作品だと思っていたが、松竹座(10月)では完全に覆された。特に松竹座の後半では南座および松竹座序盤から大幅な変貌を遂げており、戯曲部分が一気に「演劇」になっていた。一体この間に何があったんだ

・私は南座中盤、松竹座1週目、松竹座3週目に観劇したのだが、南座と松竹座1週目では星の王子さまのアプローチが明らかに変わっているのは感じたし、それは演者本人たちもパンフレットで言及していた。また、松竹座3週目には3つ目の戯曲(星降る夜に出掛けよう)が別物レベルにまで様変わりしていた。中山優馬のラジオ(10/24放送)では「本番中に違うアプローチを思いついたので、相談した上でその後の公演でそっちをやってみた」というような趣旨のことが語られていて、ラジオ中では演目名は明言されていなかったが、まあ確実に星降る夜に出掛けようのことだろう。

・私が感じた大幅なアプローチの変化は2回だが、その他にも個々の場面における台詞のニュアンスや間の取り方は毎回違っていて、演者が様々なやり方を試している様子が見て取れた。

・松竹座3週目で私が急に「演劇」を感じたのは恐らくアプローチの変化だけが要因ではなく、全編通して演者に戯曲が馴染んだこと、演者同士の芝居がかみ合ってきたこと、その他様々な要素によるものだと思う。演者本人たちも言っていたようにかなり難しい戯曲なのだろうと思うが、その難しい戯曲の中で公演を重ねるにつれて観る側(というか私)にも芝居の面白さが伝わるようになっていったということだろう。このあたりについて本人たちがどう感じているのかは知らないが、松竹座3週目に観た際にはあまりの変わり様と急に感じた芝居としての面白さで凄まじいにやけ顔になってしまった。「これは役者の”芝居”を見る舞台だったのかもしれない」と思い直したし、そもそも役者の芝居を見るというのがどういうことなのか、ド素人ながらになんとなくわかった気になった。

・この舞台では演者本人たちがかなり自主的に動いていたようで、「玉三郎さんは役者に任せてくれる」という話を演者本人たちからよく聞いた。様々な要素をつなぎ合わせたような演目の構成といい、簡素な舞台美術や衣装といい、観客側から見ても明らかな演者の主体性の強さといい、なんだか教材色の強い舞台だと思った。キャスティング時点ではほとんど配役が決まっていなかったようで、読み合わせ段階で全役を演じてみて決める、というようなこともしていたらしい。そもそも企画自体の発端からしても、舞台演劇を志す若手を育てる舞台だったような気がする。(上述の通り、ついでにオタクも観劇能力を育てられてしまったような気がする。)

 

自担について

・舞台単独出演2回目。去年の夏の夜の夢で舞台に目覚めたらしく、千穐楽後に「近いうちにまた舞台に出たい」と各所で主張していた。
・今回は本番が近付くにつれてブログでのたうち回っていることが増えた。今回の舞台はだいぶ難しかったらしく、南座期間の途中でも「スキルアップしたい」「終わったら強化月間を設けて…」と言っていた。
・「四つん這いの人間の背中に足を組んで座り猫背でタバコを吸う」「ジャケットの内ポケットからタバコを取り出す しまう」「自分の前に跪いて両手を差し出している化け物の手を灰皿にする」動作があまりにも似合ってて狂うかと思った。

・とにかくパントマイムが上手い…というよりは「そうじゃない」ものを「そう」にする能力がバカ高かった。当たり前のような顔をして人間を椅子にするし、人間の手を灰皿にするし、存在しない井戸の水を汲むし、存在しないシャンパンを存在することにしていた。

 

The Saga of Jennyについて

・最後の「歌と踊り」でのソロ曲は自分の希望を出すこともできたらしいが、これは玉様にお任せしたら渡された曲らしい。ミュージカルLady in the Dark内で歌われるバリバリのジャズ系ミュージカル曲で、こういう曲を歌う自担は本当に初めて見た。SixTONESでもこういう曲は現時点では出ていない。
・曲の良さで押し切れるような曲ではなく、シンプルに難しいし、歌唱力がモロに出る曲だと思う。演出もおそらくミュージカルを意識していて、ミュージカル内の1シーンのような作られ方だった。本当に難しいと思う 玉様からの課題曲なのかも
・ここでもナチュラルに四つん這いの人間を椅子にして酒を飲んでいた。なんで四つん這いの人間を椅子にするのがそんなに似合うんだ
・アンサンブルの方々と一緒に踊るのも似合っていた。たぶん「たくさんの何者かを従える」のが似合うんだと思う 星降る夜に出掛けようで妖怪やら幽霊やらに囲まれてるのも似合ってたし 自分が増殖するのも似合うし

 

観てる側にもかなり糧になった面白い舞台でした。自担〜これからも舞台に立ってね〜

解釈違い

ここで言う解釈違いとは、既存のコンテンツを使って作られた創作物に対する解釈違いのことを言う。わかりやすいところで言えば漫画作品の実写化とかそういうやつだ。

 

解釈違いになり得る物・事は多岐にわたる。物語の構成、キャラクターの描かれ方、世界観、キャスティング、更には「実写化/アニメ化/その他諸々自体がそもそも解釈違い」みたいなところまで、ありとあらゆる要素が解釈違いになり得る。

 

ここで重要なのは、「どれだけ面白くて完成度の高い作品でも、解釈違いは解釈違いのまま解消されない」ということである。解釈違いは作品の完成度とは直接の関係を持たない。

どれだけ面白くて巧みな展開が組まれていても解釈違いは解釈違い。どれだけ感動的で評価の高い作品でも解釈違いは解釈違い。どんなに美しい世界観、面白い世界観を描いても解釈違いは消えない。どれだけ優秀なハマり役の俳優が演じても解釈違いに変わりはない。

「情報解禁時点ではないわ〜と思ったけど役者の役作りと話の作り方が良くて結果的にはある程度解釈合ったわ〜」みたいなことはまああるだろうが、それは「蓋を開けてみないと本当に解釈違いかどうかはわからない」という話であって、蓋を開けても解釈違いならそれはもう解消されることはないだろう。(まあ解禁時点でこれは解釈違いだわ!とわかる作品が圧倒的に多く、それを裏切ってくれる作品を探す方が難しいのは事実だが…※個人の感想です)中には「別物として考えればいける」みたいな場合もあるが、そうなれるかどうかは個別の作品と個人の解釈に依存するし、「いける」というだけで解釈違いに変わりはない。

 

一方で、解釈違いとはあくまでも個人の解釈が作り手の解釈と食い違っているということなので、解釈違いは個人の中で解決されるべきだとは思う。私の解釈と作り手の解釈が合わなかっただけ、だったら見なければいい。私の中に入れなければ最初からなかったものと同じことになる。「解釈違いで見れない」ということは、私がそのコンテンツに対して持っている大切な「何か」が解釈違いによって侵されたということで、その「何か」を守るためには「見ない」が一番有効な手段だ。

ただしこの「見なければいい」にも例外はあって、例えば「大好きな漫画の実写化に大好きな推しが出るけどキャスティングがマジでめちゃくちゃ解釈違い」みたいな状況になると大変なことになる。どちらかに比重が偏っていればまだどちらかを捨てる余地もあるだろうが、どちらも捨てられないともう本当に大変なことになる。半身は熱湯半身は冷水に浸かったみたいな情緒になり、文句を言いつつ怒ったり喜んだりワケのわからない様子でドラマ・映画・その他諸々を見たことのあるオタクも多いのではないだろうか。「話上体格が大事なのに💢💢💢💢ぜんぜん違う💢💢💢💢💢💢💢」「そこは💢💢💢💢💢泣き叫ぶな💢💢💢💢💢💢声を押し殺して泣け💢💢💢💢💢💢💢💢💢」「今の顔💢💢💢💢💢💢💢💢おいしい💢💢💢💢💢💢💢💢💢」などとブチ切れてるのか推しの演技に沸いているのかよくわからない感じで見るなど、二次元と三次元どちらのオタクもしているとこういう状況は避けられないこともある。

この解釈違いは役者のスキルには一切関係なく起きる。どれだけ演技が上手くて真摯に役に向き合う役者でも、その役者を使う制作陣とオタクで解釈違いが起きることもあるし、役者自身の解釈とオタクの解釈が食い違うこともある。元ネタのオタクとしての人格は怒り狂いながら、役者のオタクとしての人格は喜び跳ね回るみたいな状態は誰が悪いということはない。ただただ一人のオタクが大変なことになるだけで、大変なことになったオタクは(誰かに多大な迷惑をかけない限り)何も悪くないし、周囲はそっとしておけばいい。

 

…というようなことを思っていたのだが、あるとき「解釈違いなんてどうでもよくなるくらいひどい実写作品」を目の当たりにして、この考え方にも注釈?例外?をつけておこうという気になった。

ずっと昔から好きだった作品が実写映画になったのだが、その情報解禁時点で「これはまずい(原作オタクとしては観ない方がいい)」と察しており、その後好きな役者の出演が解禁されて頭を抱えていた。まずメインビジュアルからして制作側との解釈違いの気配があり、その後発表されたメインキャストからも解釈違いを予感し、その予感を裏切ってくれそうな要素も見当たらない。その好きな役者も役者本人は好きだがキャスティング時点で「そこかあ〜〜〜…」と声が出た(解禁されたビジュアルも原作キャラクターとコンセプトがかけ離れていた)。ただ事前情報から察するに原作とは全くの別物であろうと予想は立てられたことと、試写会に行ったオタクの話を聞くと本当に全く違う話になっていたようなので、「まあ別物として見ればいけるかもしれん」と思って観に行った。

しかしその考えは裏切られたというか、裏切る以前の問題というか、あれほど長く感じた映画はそうそう観たことがない。まあ察していながら観に行った私が悪いのだが、話の展開も面白くなければキャラクターの魅力も出ていない。明らかに原作オタク向けの内容ではないのだが、原作を知らなければ何が起きているのかさっぱりわからないという、一見矛盾した状態が成立する稀有な映画だった。また、それだけならまだ役者のオタクとしての人格は喜べる可能性があるのだが(原作オタクとしての人格は既にダメになっている)、役者の魅力も全く伝わってこないレベルで潰されていたので役者のオタクとしての人格で見てもダメだった。映画館でなければたぶん30分も観られなかったし、安くなる日に観たからまだ後悔は小さかったが普通の日に観たら結構落ち込んだと思う(虚無で)。観終わったときには解釈違いなんてどうでもよくなっていたというか、解釈違い以前の問題というか、解釈違いを起こすにはまず作品がある程度しっかりしている必要があるという学びを得た。

(この作品がそもそも映画としてひどいと思ったのはあくまでも私の感想であるということも※でつけておきたいが、世間の評価や態度を見る限り私の酷評もどうやら世間一般から外れてはいないような気がする。)

 

だからと言って「解釈違いが起きるだけ作品の質が確保されててありがたい…」とはならないが、「世の中には解釈違いすら生まれ得ない状況もある」ということと、「解釈違いは個人の問題」というのは心に留めておきたい。解釈違いには他人が口出しできるものではないし、自分の解釈違いは他人に押し付けるべきではない。そしてこの考え方も私個人の話であって、私の外に出すときには「これは私の方針である」という注釈を明記しないまでも周りに漂わせておきたい。

 

これはその上で言いますが、あの原作から何をどうやったらできるのかわからん、解釈違いすら起きないレベルのあの映画は許さんからな…

 

星降る夜に出掛けよう 予習メモ

舞台に立った去年の自担が非常に好きだったので「舞台やってくれ~~~~~~~~~~」と呻き続けていたのですが、思ったより早く舞台出演の情報解禁があったのでびっくりしてその勢いで予習しました。以下予習内容の備忘録です。

 

思ったより早かったのでびっくりした今年の自担の出演舞台↓

www.shochiku.co.jp

 

以下、元本2冊ともまともに読んだことがなかった素人オタクが手軽に手に入る情報をつまみ食いして作った予習メモ(チラシの裏メモ)です。本ブログの情報は薄目で読んで詳しい情報は専門家の文献にお願いしますね!

 

 

概要

公演名:星降る夜に出掛けよう

原案:齋藤雅文

演出:坂東玉三郎

 

元となる本

公式HPに記載された元となる本は以下の二冊。

[1] サン=テグジュペリ作 河野万里子訳 「星の王子さま」(新潮文庫

[2] ジョン・パトリック・シャンリィ作 鈴木小百合訳 「お月さまへようこそ」(白水社

 

参考に読んだもの

[3] 「星の王子さま」事典,三野博司著,大修館書店 (2010)

www.taishukan.co.jp

[4] サン・テグジュペリと砂漠,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部 言語と文化, (1993) 199.(Permalink : http://id.nii.ac.jp/1399/00012815/

[5] サン・テグジュペリの『ある人質への手紙』の背景,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,36 (1985) 97. (doi: 10.15113/00013714)

[6] 世界史の窓 フランスの歴史 (Y-History 教材工房) (https://www.y-history.net/appendix/wh0601-090.html

[7] サン・テグジュペリの『手帳』の内容と解説,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,46 (1990) 97. (doi: 10.15113/00013593)

[8] サン・デグジュペリの『戦時の記録』の内容と解説,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,49 (1991) 147. (doi: 10.15113/00013562)

[9] 『星の王子さま』を読む(1) : 「子ども」であることと「おとな」になること,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,57 (2021) 99. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001671/)

[10] 『星の王子さま』を読む(2): 師と弟子と,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,58 (2022) 113. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001839/)

[11] 『星の王子さま』を読む(3) : 「飼いならす」ことのレッスン,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,59 (2023) 109. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001893/)

[12] サン=テグジュペリ・コレクション6(ある人質への手紙 戦時の記録 2),サン=テグジュペリ著,山崎庸一郎訳,みすず書房 (2001)

www.msz.co.jp

[13] アイルランド詩人 W.B.イェイツの夢,羽矢謙一,松山大学紀要 言語文化研究,32 (2012) 5.  (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1249/00002244/)

星の王子さま

言わずと知れた有名作品と呼ぶのも躊躇するくらいの超有名作品。世界で五本指に入るくらいの多数の言語に訳されている[3]

あらすじ・構成

語り手が六年前に砂漠のど真ん中で出会った王子さまのことを読み手に語る形式で物語が進行する。

語り手はサハラ砂漠の上空を飛行機で飛んでいたが、エンジンの故障によって一週間分の飲み水しかない状況でサハラ砂漠のど真ん中に不時着した。危機的状況の中、翌朝小さな王子さまのヒツジの絵をねだる声で起こされる。王子さまは語り手が子どものころから求めていた「ゾウを飲み込んだ大蛇の絵を説明なしに理解できる」目を持つ、「ほんとうにものごとのわかる」人だった。

王子さまと知り合った語り手はエンジンの修理を試みながら王子さまの話を聞いた。ただし王子さまは語り手にたくさん質問をするが、語り手の質問には答えないので、断片的な情報から語り手は王子さまの故郷やこれまでしてきた旅のことを知ることになった。

 

王子さまは小さな星にひとりで住んでいて、星にとって悪い草を抜いたり、小さな火山を掃除したりといった「おもしろくもないけどかんたん」な仕事をして生活していた。しかしあるとき飛んできた種から咲いた今までに見たこともない美しい花に心奪われ、花に言われて世話を焼くようになるが、見栄っ張りで気まぐれな花に散々振り回されて、「あまりにも子どもだった」王子さまは花とうまくいかなくなり、花を置いて星を出てきてしまった。

それから王子さまは仕事を探したり見聞を広めたりしようといろいろな小惑星をめぐり、「どうかしている」おとなたちと出会う(6番目に訪れた星で地理学者の話を聞き、花が「はかない」ものであることを知る。ここで王子さまは花に申し訳ない気持ちになる)。王子さまは「おとなって本当にどうかしている」と思いながら、6番目の星で地理学者に紹介された星地球へ向かった。

王子さまが巡ってきた星にはそれぞれ一人のおとなしか住んでいなかったが、地球は今までに見たこともないくらい大きく、王子さまはそこで人間ひいては友だちを探すために何日も歩き続けた。ようやく一本の道を見つけ、歩いていると、ひとつのバラの庭園を見つけた。そこで5000本のバラと出会い、この世に一輪だけの財宝だと思っていた自分の花がありふれたバラのひとつだと知り、自分の持つものの貧弱さを思い知って「こんなものだけじゃりっぱな王子さまになれない」と嘆き悲しむ(ここで王子さまは「目に見えるもの」に捕らわれ、アイデンティティ喪失の危機に陥っている)。

そうして悲しんでいるところにキツネが王子さまに声をかけてきて、王子さまは「悲しいから一緒に遊ぼう」と誘うが、「君にはなついてないから遊べない」と突っぱねられる。王子さまが「なつく」とは何かと尋ねると、キツネは「絆を結ぶこと」と言う。キツネは「きみになついたらどんなに楽しいだろう」と自分をなつかせるように王子さまに頼み込むが、王子さまは「友だちを見つけなきゃいけないし知らなきゃいけないことがたくさんあるので時間がない」と断る。それにキツネは「なつかせた者にしか知ることはできない、がまん強く時間をかけなければならない」と諭し、王子さまはキツネの指導のもとキツネをなつかせることになった。そうしてしばらくして、なつかせたキツネとの別れ際、王子さまはキツネに「大切なものは目に見えない」「君は君と絆を結んだバラに責任がある」と教わった。その後、王子さまは地球上でも急ぎすぎて大切なものを見失っているおとなたちに出会いながら旅を続けた。

 

王子さまの話をここまで聞き終える頃には語り手の飲み水は尽きていた。王子さまに言われて井戸を探しに行く際に、王子さまのふとした一言、「星々が美しいのはここから見えない花がどこかで一輪咲いているから、砂漠が美しいのはどこかに井戸をひとつ隠しているから」を聞いて、語り手もキツネの教え「大切なものは目に見えない」を会得した。その後王子さまは毒蛇に噛まれることによって体を捨て、自分の星へ帰っていった。

挿絵はこの話を書いている「僕」が説明のために描いたというていでつけられている。実際、挿絵はサン=テグジュペリ本人が描いたものである。

 

書いた人

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

・1900年生、1944年没。フランス南東部リヨンの名門貴族の長男。この時代のフランスの代表的な作家。代表作は星の王子さま、人間の土地、夜間飛行など。

・作家であると同時にパイロットとしても活動していた。20代の頃には郵便輸送のパイロットを務めており、30代ではアメリカ大陸縦断飛行やパリーサイゴン間の長距離飛行に挑戦した[1,3,4]第二次世界大戦では飛行隊として兵役に従事した[5]

書かれた時代と場所

星の王子さまは1942年から執筆され、1943年に出版された[3]。このときサン=テグジュペリはドイツ占領下にあったフランスからアメリカへ亡命していた。

・1938年、サン=テグジュペリはニューヨークへ渡り南北アメリカ大陸縦断飛行に挑戦したが、中継地のグァテマラで大事故に見舞われ、ニューヨークに戻って療養生活を送っていた。このとき「人間の大地」を執筆し始め、その後パリに帰ってから完成させた。「人間の土地」は1939年に出版され、アメリカでは「風と砂と星と」としてベストセラーとなった。[3,4]

・1914-1918の第一次世界大戦でフランスはドイツの侵攻を受けながらも戦勝国となった。敗戦国ドイツに対して過酷な要求を迫ったが、これによってドイツ内部の反感を買った。1933年ドイツでヒトラー政権が成立すると、ドイツはフランス侵攻の準備をする形勢となった。1939年に第二次世界大戦が勃発、ドイツはポーランドへ侵攻し、その後1940年5月にはフランスへ侵攻した。わずか一ヶ月でパリが陥落するとドイツとフランスは休戦協定を結び、フランスはドイツの占領下に置かれた。[6]

サン=テグジュペリは1939年の開戦で航空技術の講師として動員されたが、その後志願して偵察飛行大隊に配置された[7]。ここでは「ドイツ軍のただ一度の大攻勢のあいだに、さらに搭乗員の四分の三を失ってしまった」ような危険な任務が行われた[5]

・パリがドイツ軍によって陥落し、仏独間で休戦協定が結ばれると、サン=テグジュペリも動員解除されてフランスへ帰国した。ドイツ占領下のフランスでは飛行機の操縦もできなければ書いたものの発表もできず、サン=テグジュペリアメリカへ亡命することにした[5]アメリカに援助と参戦を求めたいとも考えていた?[1,3])。「人間の土地(風と砂と星と)」が売れたため、サン=テグジュペリアメリカでも名前が知られていた[3]

・1940年末にサン=テグジュペリはニューヨークへ渡り、アメリカ国内のフランス人コミュニティにおける政治的な派閥同士の争いを目の当たりにした。サン=テグジュペリは派閥に加わらず、著作でフランスでの戦争の様子を伝え、「フランス人同士で団結して祖国解放のために戦うべきである」「今フランスのために戦っているのはフランス国内にいるフランス人であり、亡命したフランス人ではない」などと主張した[5]。また、1942年に「戦闘パイロット」を出版し、「ヒトラーの『我が闘争』に対する民主主義の最良の回答」という評価を得た[8]

・1941年末にアメリカが第二次世界大戦に参戦し、1942年に連合軍が北アフリカ(対独協力体制のフランス政府統治下にあった)に上陸してフランス奪還への基盤ができると、サン=テグジュペリアメリカ軍に参加しようと手を尽くし、移動証明書を入手した[5]サン=テグジュペリアメリカで安全な生活を送ることを良しとせず、自身で危険を冒し戦線に立つ者のみが祖国を語る権利を持つと考えていた[3,5]星の王子さまが書かれたのはこの時期であり、1943年に出版[3](印刷?[3])された数日後、サン=テグジュペリ北アフリカへ出発した。

北アフリカでは高齢のために飛行隊への復帰は認められなかったが、ここでもあらゆる手を使ってかつて所属していた飛行隊へ復帰した。その後事故で飛行禁止命令が下るが、またもやあらゆる手段を駆使して回数制限付きの飛行許可を受け、兵役に復帰した。その後回数制限をはるかに超えて飛行し、1944年にコルシカ島の基地から飛び立ったまま行方不明となった。[1,5]

書かれた言語

星の王子さまはニューヨークで書かれまずはアメリカで英語版が出版されたが、サン=テグジュペリはこれをフランス語で書いており、英語版は他者による英訳版である[3]。そもそもサン=テグジュペリアメリカ亡命後も英語が話せず、ようやく英語を勉強し始めたのはアメリカが第二次世界大戦へ参戦した後、米軍への参加を自分で頼めるようにするためであったので、その他の著作ももとはフランス語で書かれている[5][1]の表紙に書かれた原題もフランス語の「Le Petit Prince」である。(日本語に直訳すれば「小さな王子さま」だが「星の王子さま」と訳されたものが定着して以降、これを踏襲するのが通例となっている[9]。)

作品の主題

・「大切なものは目に見えない」はあらゆる紹介文で示される星の王子さまの主題だが、これが具体的にどういうことなのかというのは、キツネが別れ際に王子さまに伝えた「ものごとは心で見なくてはよく見えない」「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみがバラのために費やした時間(や労力)」というところでかなり直接的に説明されており、作中に同様の表現が繰り返し現れる。また、「目に見えないものが隠されていることによって輝きを持つもの」も複数登場する。(どこかに井戸を隠している砂漠、どこかに王子さまが暮らしている星がある星空、どこかに宝物を隠している屋敷など)

・王子さまがキツネに出会った際、キツネは「ぼくを君になつかせて」と頼み込むが、この「なつかせる」には訳者によって様々に異なる訳語が当てられている。原文では「apprivoiser」であり、これは主従関係を表したり「(野生動物を)野生的でなくする」とか「(人間に対して)手なずける」といったニュアンスを持つ言葉である[10]。物語中でキツネの使うこの言葉に直訳「飼い慣らす」を当てると違和感が生じるため様々な訳語が当てられると考えられるが、キツネの教えを考えるとこの違和感のある言葉こそが訳語としてふさわしいとの指摘もある[11]

献辞について

星の王子さまはレオン・ヴェルトに捧げられている。献辞では本来この本が送られるべき子どもたち(または作中の語り手が語りかけている相手)に対して、この本がレオン・ヴェルトに送られる理由(言い訳)が3つも連ねられている。最終的には、献辞は「小さな男の子だった頃のレオン・ヴェルトへ」に書き換えられる。

・レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリの22歳年上の友人で、作家やジャーナリストとして活動していた[1]。ドイツ(ナチス政権)占領下のフランスに住むユダヤ人であるのでかなり立場が厳しく、抑圧されたフランス国内に隠れ住んでいた。

・レオン・ヴェルトに献上されたサン=テグジュペリの著作には「星の王子さま」と「ある人質への手紙」があり、どちらも同時期(アメリカ亡命中)に書かれたものである。「ある人質への手紙[12]」は当初レオン・ヴェルトの著作の序文として書かれたが、結局サン=テグジュペリの単独の著作として1943年2月に刊行された[5]。この1,2か月後に星の王子さまが出版(印刷?[3])され、その数日後にはサン=テグジュペリ北アフリカへ出発した。

・「ある人質への手紙」でサン=テグジュペリは人間に対する敬意の重要性を訴え、アメリカ国内で派閥に分かれ対立するフランスからの亡命者を批判した。「ある人質への手紙」の中には「星の王子さま」の主題を文体を変えて訴えている箇所がある。アメリカへの船に乗っている亡命者たちを「帰る場所のない根無し草」と批判するくだりには以下のような文章がある。キツネが王子さまに説いた「大切なものは目に見えない、大切なものを大切にしたのはそれにかけた時間と労力」に通じる。次の文は[12]に収録された「ある人質への手紙」から一部を抜粋したものである。

だれも彼らを必要としていなかったし、だれも彼らに呼び掛けようともしていなかった。(中略)わたしたちを援けてくれるような友人はすぐ見つかる。だが、援けを求められる人間になるためには時間がかかる。(中略)子どもが要求を出すようになるためには、ながいこと乳を与えなければならない。友人が友情の権利を要求するようになるためには、ながいこと親交を結ばなければならない。古い城を愛するようになるためには、数世代にわたって、その崩壊の修復に財産を使い果たしてきていなければならない。

また、サハラ砂漠で生活した時期を回想する部分には以下のような文がある[12]。飲み水が尽きて井戸を探しに行く語り手と王子さまの会話部分や、王子さまが星へ帰った後の語り手の独白部分と通じる。

言うまでもなく、サハラ砂漠は、見渡すかぎり一様な砂しか見せてはくれない。(中略)ところが、眼には見えない神々が、方向と傾斜と予兆との網目、秘かな生きた筋肉組織をつくりあげているのだ。(中略)それぞれの星が真の方向を定めている。(中略)ある星は、たどりつくことが困難な遠い井戸の方向を示している。(中略)また別の星は、涸れた井戸の方向を示している。(中略)さらにある星は、海の方向を示している。

最後に、ほとんど非現実のものと思われる様々な極が、きわめて遠くからその砂漠を磁化している。思い出のなかに生き残っている子ども時代の家。生きているということを除いてなにもわからない友人などが。

こうやってひとは、自分を引き寄せたり、推し戻したり、いざなったり、抵抗したりする磁場によって、緊張させられ、生気を与えられていることを感じるのだ。主要な諸方向の中心に、しっかりと築き上げられ、限定され、据え付けられるのだ。

その他

・バラのモデルは諸説あるが、妻コンスエロが主なモデルであろうという見方が一般的である。コンスエロは戦後に「バラの回想」と表題をつけた手記を書いており、その中で自分がバラのモデルであると主張している[3]。バラの回想はコンスエロの死後出版された。

サン=テグジュペリパイロットとして生涯飛び続けていたが、何度か重大な事故にも見舞われている。そのうち一度がパリーサイゴン間飛行途中のリビア砂漠への不時着(墜落)で、星の王子さまはこの事故から着想を得ていると考えられる[3]

サン=テグジュペリサハラ砂漠で飛行場長をしていたことがあり、星の王子さま内での夜の砂漠のイメージはサハラ砂漠で暮らしていたときに得たものであることが「ある人質への手紙」から察せられる。また、このときキツネ(フェネック)を飼っていたらしい[1,3]

・王子さまが自分の星で1日に44回も夕日を見た話では、王子さまの星はとても小さいので椅子を少し動かすだけで何回も夕日が見られるが、地球においては「アメリカで正午のときフランスでは日が沈んでいく、もし一分でフランスに行けるならそれで夕日が見られるが、フランスはもっとずっと遠いところにある」と距離のたとえとしてアメリカとフランスが使われている。

星の王子さまは誰のための物語か

・「星の王子さま」は子ども向けの本という形で書かれており、文章も子どもたちに話しかける形式になっている一方で、明らかに読者として「おとな」を意識している。この物語が誰向けのものかというのは議論の争点になっている。[3]

・バラの花のことを話す王子さまは「ぼくはまだあまりに子どもで、あの花を愛することができなかった」と語り手に打ち明けている。この話をしている時点の王子さまは、「仕事を探したり見聞を広めたり」するために星々を巡り、今まで見たこともないような大きな星地球で5000本のバラに出会ったことでアイデンティティ喪失の危機に陥ったり[9]、キツネから「絆を結ぶこと」「絆を結んだ相手への責任」を教わったりした後の王子さまである。王子さまは「眠ってしまった王子さまを語り手がそっと抱き上げて井戸を探しに歩き続けられるくらい」の体格であるので、一般的な人類の基準で言えばまだ小さい子ども(就学前後くらいまでの年齢?)と考えられるが、一般的な人類の基準で考えるべきでないことは確かである。故郷の星で「バラとうまくいかなかった」、その後の小惑星を渡る旅、地球でのアイデンティティ・クライシス、キツネとの出会いと別れまでの流れは、子どもが子どもから脱出し、大人になる際に通る道筋と見ることができる[9]。王子さまは「永遠の子ども」ではないし、作中繰り返し出てきては揶揄の対象となる「おとな」は文字通りの「成人」ではなく、王子さまが道中で会った「どうかしている」おとなのことと見ることができる。「星の王子さま」という作品はおそらく成人全員を「どうかしているおとな」だと思っているわけではないし、実際この作品は「子どものために書かれた本でさえわかるおとな」であるレオン・ヴェルトに捧げられている。

 

お月さまへようこそ

概要

・ジョン・パトリック・シャンリィによる短編戯曲集。①赤いコート、②どん底、③星降る夜に出掛けよう、④西部劇、⑤喜びの孤独な衝動、⑥お月さまへようこその6編から構成されている。作者は作者ノートで「この戯曲集の芝居を数本、もしくは全部上演することになったら、順番は皆様の考えで入れ替えして全く構わないが、多分、「お月さまへようこそ」は最後に残しておいた方が賢明だと思われる」としている。

・それぞれの短編は完全に独立しており、同じ登場人物が複数の作品に出ることもない。(実際上演する際にはこの作品のこの人とあの作品のこの人は同一人物、という設定にしてもいいのだろうが、少なくとも文章中には異なる作品に同一人物が出ているとみなせる情報は一切ない。)

・シャンリィが自身の体験や感情を素直に書いた戯曲集で[2]、出版本冒頭の「作者ノート」にも「この戯曲集の中にはわざとらしく誇張した演技に頼ってしまいがちなものもあるが、信じて欲しい。それでは上手くいかない。私が自分の心で書いたのと同じように演技も、それが最もふさわしい。」との記述がある。

・初演は1982年で、ニューヨークで上演された(日本では東北新幹線上越新幹線が開業し、世界が第二次オイルショックに見舞われていた年)。「お月さまへようこそ」は殺伐とした都会に生きる人々を描いた作品で、最後の短編「お月さまへようこそ」には舞台がニューヨーク・ブロンクスであるとの明確な指示がある。

・シャンリィ作品では人類と宇宙のつながりがテーマとして根底にあることが多く[2]、月、ひいては宇宙が重要な役割を果たしている。「星降る夜に出掛けよう」では、登場人物2人が互いに分かりあう場面に星や惑星の描かれた幕を下ろす指示があり(作者ノートでは「幕を使いたくない場合には、スライド投射でも十分な効果が多分得られるだろう」とされている)、2人は星や惑星が美しい夜空の下でいらないしがらみから解放される。

書いた人

ジョン・パトリック・シャンリィ[2]

・1950年生まれ。ニューヨークのイースト・ブロンクス出身の劇作家。イースト・ブロンクスはイタリア・アイルランド移民が主に住んでいる町で、シャンリィの両親もアイルランド移民である。

・11歳頃から詩や小説を書いており、詩人志望であったが、大学で劇作に出会い劇作家として活動し始めた。大学在籍中には休学して海軍に入ったり、その後さまざまなアルバイトをしたりしていたが、大学に戻ってからは教育演劇学を学び卒業生総代として卒業した。(「お月さまへようこそ」には大学在籍中に軍務があったりその他いろいろな仕事をしていた男が出てくる)

・様々な戯曲を書いて発表した後、「お月さまへようこそ」が評価されて劇作家として認められるようになり、その後も数々の戯曲を手掛けている。また、映画の脚本を執筆したり映画監督をしたりなど、映画界でも活動している。

あらすじ

それぞれの話は独立しているが、どれも「人と人が分かりあう喜び・分かり合えなかったときの悲しみ」がテーマにある。今回は③星降る夜に出掛けようと⑤喜びの孤独な衝動が上演される。

③星降る夜に出掛けよう

幽霊や妖怪たちに囲まれ、頭を噛んだり腹を引っ掻かれたりしている悩める男がカフェでグラスワインを飲んでいる。別のテーブルには痩せた女が女友達と座っている(この友達は人形とする指示がある)。女は自分のことを愛してくれない女との偽善に満ちた薄い友情もどきが嫌になり、口実を作って(自分の頭に水をぶっかけて)幽霊や妖怪に付き纏われている男のテーブルへ行く(なぜ男に目をつけたのかといえば、「ドストエフスキーに似ている(ただしこれは表面的な話ではない)」から)。男が女に話しかけられてもなお幽霊や妖怪たちは男に付き纏い続けるが、女が「真剣に話がしたい」と言った瞬間男に構うのをやめた。男いわく、幽霊や妖怪たちは真剣な話は尊重し、協力もするらしい。女は「まず俗界のことを片付けてくる」と言って女友達を箱に詰め込み、「不要」の紙を貼り付けて蹴り飛ばした。女と男は話をして、互いに胸の内を打ち明けあう。二人が通じ合って正直になり、真剣になって「星降る夜に出掛ける」と、男に纏わりついていた幽霊や妖怪は消え去った。

※この作品を書いたときのシャンリィはドストエフスキーの「罪と罰」にドハマりしていたらしい。

 

⑤喜びの孤独な衝動

ジムはウォルターに連れられて、午前二時に池のほとりで何かを待っていた。ウォルターに一体何をしているのか何度も尋ねるがいまいち答えが要領を得ない。一方のウォルターは、ジムに一世一代の重要な秘密を共有しようとしていた。存分に前置きをしてウォルターは「この池に住んでいる人魚と恋をしている」とジムに打ち明ける。しかしそれを聞いたジムはあまり本気にしていない。どうしてもジムに人魚と会ってほしいウォルターは人魚を呼ぶがなかなか現れない。パーティーで出会った素敵な女との夜をぶち壊され、何も教えてもらえないまま深夜二時まで池のほとりで待たされ靴が台無しになり、勿体ぶった挙句に実在するとは思えない人魚を呼び続ける親友に愛想を尽かしたジムはウォルターを置いて帰ってしまう。ウォルターは親友に理解を得られず孤独に打ちのめされて嘆き悲しむ。その後やっと呼んでいた人魚が姿を現した。

※「喜びの孤独な衝動」という題はウィリアム・バトラー・イェイツの詩「自分の死を確認する前のアイルランド人飛行士」の一節からつけられている[2]。これは1918年に撃墜されてこの世を去った英国飛行士官について、その飛行士の友人であったイェイツが作った詩で、最後の飛行で死を悟った飛行士本人がつぶやいている形式をとっている[13]。詩の中では飛行士がその最後の飛行を喜びの孤独な衝動と称している[2]

 

その他の話の概要はこちら↓

①赤いコート:16,7歳の少年と少女が月光の美しい夜に赤いコートを介して心を通わせる話。

どん底:金も職もなく病に冒された詩人が様々なものを奪われ、魂まで奪われそうになりながら、恋人の支えでまた詩を書き始める。シャンリィの実体験に基づく話。

④西部劇:街に住み、親にこき使われる孤独な少女が大草原の自由なカウボーイと出会い、決闘でカウボーイを守って殺されるも心は救われる。

⑥お月さまへようこそ:昔の彼女が忘れられず、妻と別れて故郷に帰ってきた男が旧友たちと再会する。長年押さえ込んできた思いを爆発させた旧友たちは、思いを通じ合わせたり通じ合わせられなかったりする。

 

予習メモは以上です。

ここまで書いといてアレですがマジで予習いらない気がします。様々な事前情報から察するに元本をそのまま使うストレートプレイ!みたいな感じでもなさそうなので、私は予習内容を全て忘れた上で観劇に臨む予定です。

 

夏の夜の夢と三番叟

情報解禁から1年、千秋楽から半年以上経ちましたが、急に「記録しといた方がいいのでは?」と思い立ちました。ざっくりメモです。何か思い出したら追記します。

 

概要

www.shochiku.co.jp

 

演出:井上尊晶、訳:河合祥一郎、音楽:松任谷正隆のスタッフ陣で中村芝翫シェイクスピア作品の主演を務めるプロジェクト(?)の第二段(第一弾は2018年のオセロー)。日生劇場で2022年9月に上演。

 

舞台の様子が垣間見えるネット記事↓

natalie.mu

 

セット

・ステージ上に石段が作られている。ステージ前方に芝を敷いた空間があり、その空間を取り囲むように石段が積み上がっている。センターは駆け上がれる・駆け降りられるくらいの小さな段差の階段になっていて、その頂上に鳥居が立っている。石段にはかなり太い樹(針葉樹?)が複数生えていて、舞台端から生えた樹(多分桜)には花が咲いている。山の斜面に生えた樹を避けて石段を作り、すり鉢状になった石段の底に芝が敷いてあるような構図。石段にはたくさん座布団が敷いてある(幕間に一部を残して撤去される)。

・転換はなし。幕も一切使わない。開演前に会場に入ると剥き出しのステージに迎えられ、帰るときも剥き出しのステージが見送ってくれる。幕間にも幕は降りない。舞台上の装置をいじると言えば「ステージの小上がり的なステージ(簡単にバラせる)を撤去する」「座布団を段上から下へ放り投げる(幕間で撤去)」「小上がりを出す」のみ。ステージ上に組まれた小さな舞台は第一幕の間にバラされ、第五幕で再び組まれる。枠は木製で面は透明(たぶんアクリル)。第一幕の職人たちの場面で「足場のバラし」のようなバラし方をされる(よーーしバラすぞーーーーという掛け声がかかる)。第五幕では結婚式の出し物を見ようとテーセウスが演目を選んでいる間に再びステージ上に組み立てられる。

 

配役

・女王と王以外の妖精は全員子供が演じている。パックも10歳前後の男の子で、フィロストレートと一人二役で演じる。パックは鼻筋に白い線を入れる化粧をしているが、フィロストレートを演じる際にも化粧はそのままになっている。

・森の中のシーンではほぼ全て舞台上に黒子(の姿をした人物数人)が控えている。妖精たちを持ち上げて舞わせたり、石段に座っていて舞台上の出来事に反応したりする。亡霊という役名がついている。オーベロンに睨まれると怯えて隠れたり、イチャつくハーミアとライサンダーの野次馬になったりしていた。

 

衣装

・いろいろな文化や時代がごちゃまぜになっている。日本の民族衣装であろうことはわかるが具体的にどれと言われると困る服・原型は韓国中国あたりの民族衣装であろう服・レスラー・アイヌ民族の紋様を使った服・とりあえず現代のものではない大工の服等々。妖精の衣装は白という点だけ統一されている。妖精の子供たち(パック以外)は頬が赤く塗られていた。

 

構成

劇中劇の形式がとられている(夏の夜の夢には劇中劇があるので、その部分は劇中劇中劇になる)。原本部分(シェイクスピアが書いた台本およびその訳本)の前後に台詞や大きな展開はない。

原本部分前

ブザーもなく客電もまだ明るいところに唐突に太鼓の音が鳴り、鳥居の向こうに子供が現れる。太鼓の音に合わせて子供が階段を降りてくるうちに客電が徐々に暗くなってくる。舞台上の小上がりに到着すると三番叟が始まる(途中で演出が変更になった。三番叟の途中で客電が徐々に暗くなる回もあった)。三番叟が終わると演者が石段の上から出てきて、ぞろぞろと下に降りて一列に並び礼をし、各々の場所につく。このとき演者は蓑と傘を背負っている。ここで小上がりに上がるのは2人(テーセウス役とヒポリュテ役)で、テーセウス役が杖で小上がりを打ち、蓑を脱ぎ捨てたところから台詞部分が始まる。その後、演者は出番が来ると1人ずつ蓑を脱ぎ捨ててその場に立つ形で登場する。

原本部分後

パックの口上の途中で、それ以前にはけていた演者が全員石段に出てくる。「ご厚意あれば拍手をどうぞ そしたらパックはお礼を言うぞ」はオーベロン(テーセウス)の台詞に変わっている。このとき、オーベロン(テーセウス)とティターニア(ヒポリュテ)の衣装だけ冒頭と同じものに戻っている。「ご厚意あれば拍手はどうぞ」で拍手が起きるが、それを上回る声量と響き方の「そしたらパックは」の台詞回しがすごかった。

 

演出

・パック役は登場するとき(台本部分前)には車椅子に乗っている。その後、台本中で最初に登場する際にも車椅子で入ってくる。どうやら脚が動かないらしいが、亡霊に立たされ舞わされるうちに走ったり跳んだりできるようになる。最後の口上の間に再び崩れ落ち立てなくなるが、ここでは脚どころか全身で力尽きているように見える。テーセウスの台詞(パックの口上がテーセウスに変わったところ、上述)の後、石段からライサンダーが降りてきて小上がり舞台の上で力尽きているパックを起こし、パックはボトムが抱えて退場する。退場の際、パック・ライサンダー・ボトムの3人だけが鳥居をくぐる。

ライサンダーの左手首には包帯が巻いてある。ネット記事によれば「心の傷を表現するための包帯」らしい。演者たちは「ランチパック」と呼んでいた(中身はピーナッツバターらしい)。

こちらの記事の画像キャプション参照↓

www.edgeline-tokyo.com

・ところどころで現代の環境音が聞こえる。現代日本の街中の雑踏とかガラケーだかスマホだかの着信音とか車の行き交う音とか踏切の音とか聴き覚えのある目覚ましの音(iPhone)とかが入り混じっているが、最後に演者がはけていくときは何やら音声(たぶん英語)も聞こえてくる(何を言っているかは聞き取れなかったが、これに言及しているブログもたぶんある)。

・劇中劇シーンでは客電が明るくなり、観客にテーセウスが拍手を求めたりする。(最初の方の公演は客電をつけていなかったが途中で変更になったようだ)

・職人たちの劇中劇では、ピュモラスは馬鹿殿を彷彿とさせる衣装、ティスベは女方、ライオンは(歌舞伎の)獅子のような何か、壁は壁、月は月に住む男になる。附け打ちもいる。歌舞伎の要素を軸としたアドリブ満載のハチャメチャ劇だが、ティスベ(フランシス・フルート)役がとにかく圧倒的だった。シェイクスピアの時代には女優がいないため声変わり前の少年が女役をしていたという事情があり、夏の夜の夢の職人の劇中劇では「素人が寄り集まってできた劇団のため少年がおらず、どこからどうみても成人の男が無理やり女を演じる」というところで素人感と無理やり感が演出されている。しかし日生劇場の夏の夜の夢ではここに林佑樹が起用されており、圧倒的な女方の所作で暴れ倒すという凄まじい構図になっていた。ピーター・クインスの冒頭の口上は訳本通り素人の喋りだが、登場人物(職人)が登場した後の紹介は達人のそれになる。

・若者4人の森のシーンでライサンダーがハーミアを罵る台詞が日替わりになっていた。我々はそれを罵倒ガチャと呼んでいた。

・恋の三色菫は扇子で表現される。オーベロンが三色菫を使う場面では歌舞伎の要素が強く出る。

・森でヘレナとディミートリアスが言い合いするシーンでは、聞いているオーベロンが「そうそう」という顔をしたり、ヘレナを罵るディミートリアスに「なんなんだお前は!」と説教したりする(妖精は人間には見えないのでここでは声は聞こえない)。

 

その他

・台詞はほぼ訳本(新訳 夏の夜の夢(角川文庫))そのままで、パックの台詞は若干少なくなっていた。また、現代日本ではピンと来る人が少ないであろう箇所(話の進行上はなくても問題ない)は削られていた。あとはところどころにアドリブが入る。

・演者個別のマイクはなかった。ステージのすぐ下にスタンドが立っており、舞台のへりに何本かマイクらしきものが設置されていた(他にもあったかもしれないが客席からわかったのはそれくらい)。

 

自担について

・外部舞台初経験。外部の演出家にがっつり指導されるのもたぶん初めて。稽古開始より前から演出家の先生に教えてもらっていたらしい。ちなみに私は少年たちは見れていない(見てたら夏の夜の夢の彼と比較できたのに…)。

・第一声を聞いてひっくり返った。こちらの期待値を上回ってきたというか、想定を完全に裏切ってきた。「こんな感じの演技をするだろう」と事前に想像していたわけではないので、「期待値」も「想定」も適切な表現ではない(期待値は設定していなかったし何かを想定していたわけでもないから)のだが、これ以外に言葉が見つからない。とにかく初手から全く知らない姿を見せられたので、とんでもなくびっくりした。劇場の外の自担とは別人だったし、舞台が終わって以降劇場の外で劇場内の彼を見たことはない。(※千秋楽後のSixTONESANNで同じく舞台を終えたメンバーと舞台発声で喋っていたが、そのときは体感5割ほど劇場の自担だった)

シェイクスピア作品のメインキャラクターは全員そうだが、自担の台詞量も例に漏れず多い。公演数も結構あったが、最後まで一切声が枯れなかった。

・「自分や他の人の台詞が飛んだり何かを間違えたりしたらどうリカバリーするか」を練習していたらしい(SixTONESオールナイトニッポンサタデースペシャルより)。確かにあの台詞量であれだけの公演数があれば、おそらく必ず誰かが何かを間違える。自担に関しては、ディミートリアスとヘレナを取り合う場面で、一度「君はハーミアを愛してる!お互い知ってることじゃないか!俺はハーミアを愛してる!」と言ってしまい、「………は?俺は何を言ってんだ?」と乗り切ったらしい(私は見れていない)。私が入った回では一回だけボトムの台詞が混乱していたが、事前に訳本を読み込んだ上に複数回観た人でなければわからないくらいスムーズに話が進んでいった。

・千秋楽後のブログで「この作品がターニングポイントになると思う」と明言していた。また、舞台期間あたりの複数の雑誌で「近いうちにまた舞台に立ちたい」と言っていた。

・暖簾は入所当時からお世話になっている知念侑李くんにお願いしたもの。ラジオ(SixTONESオールナイトニッポンサタデースペシャル)で「この暖簾がボロボロになるくらい舞台に出たい」と言っていた。

 

うわ言

以下公演期間中のうわ言のようなメモ書き(たぶん読んでも意味がわかりません)

 

・舞台を日本に移して=モチーフを日本の祭事にした(日本モチーフを使った)+それ以前にこの公演を神に捧げるための祈りの芝居として日生劇場で上演した(=舞台は現実の日本そのもの、「日本に移した」とは「日生劇場に移した」ということ)? 劇中では明言されないが、この上演が劇中劇として作られていることはパンフレットにも書いてある。

・「舞台を日本に移した」というのは、単に「歌舞伎の要素を取り入れ、日本の風景をモチーフにした」ということだけではなく、たぶん、「『日本の祭事でよく見られる神に捧げる芝居』として夏の夜の夢を上演した」ということだろう(だから登場人物の名前はシェイクスピアが書いた通りになっている、と制作側から言及がある)。あるいは、この芝居の舞台は今現在我々が住んでいる日本そのもの、言ってしまえば「舞台を日生劇場に移した」ということかもしれない。現代における夏の夜の夢は劇中劇として演じられることが多いらしい。我々観客は劇中劇の観客として劇中に組み込まれていた構図。シェイクスピア時代の夏の夜の夢も劇中劇(職人の劇は劇中劇中劇)だが、こちらはメタシアター的な意味の劇中劇。このメタシアターの構造を考慮すると、日生劇場の夏の夜の夢は劇中劇中劇くらいになるかもしれない(職人の劇は劇中劇中劇中劇)。

・演者たちは最初「神の依代」としての衣装を着ており、出てきてそのまま一列に並んで深々お辞儀する。これは観客へのあいさつとも取れるが、歌舞伎「翁」の冒頭、演者が神を模すことへの畏敬の念を示すのと同じにも見える(パンフには「客は神」のようなことも書いてある)。

・夏の夜の夢はロミオとジュリエットと同時期の作品で、イギリスではちょうど黒死病が蔓延しており、21世紀のコロナ禍と同じ状況にあったことは、かなり重要な要素としてパンフレットや事前講座で繰り返されていた。

・事前講座で「遠野物語」というキーワードが出てきていたが、これは遠野物語の中の特定の話ではなく、「人と人ならざるもの、生と死、人と神などの境界が曖昧な世界」ということだろう(シェイクスピアの根底にあるギリシャ神話も人と人ならざるものの境界が曖昧)。

・物語上なくてもいい「テーセウスがテーセウスであることを示す台詞」はなくなってる?9/13では少なくともティターニアの台詞からテーセウスと関係のあった4人の女性は消えていた。

・芝居に入ると姿が変わるのはテーセウス(オーベロン)・ヒポリュテ(ティターニア)・パック テーセウスとヒポリュテは動くのもままならない老体から健康体になり、パックは軽々動けるようになる→信仰を必要とする存在?(この芝居は奉納のための芝居なので、奉納の間は元気に動ける) 逆に芝居に入っても姿が変わらないのはライサンダー 最後に鳥居を通るのはテーセウス・ヒポリュテ・パック・ライサンダー・ボトム パックの衣装が蓑っぽいのも気になるんだよな〜

・現代環境音は①冒頭(喧騒)、②パック登場シーン(ヘリコプター)、③職人たちとボトムが落ち合うシーン(交通量の多い通り)、④ラスト(紛争ぽい?英語アナウンスが聞き取れない)

・誰が人か人ならざるものなのか、どこまでが夢でどこが現なのか、何が虚構で何が現実かわからなくなる演劇だった 新プラトン主義の「全ての矛盾は極大で解消される」という考え方に通じるかもしれない

ライサンダーのヘレナへの惚れ方がかなり変態的で気色悪い。ヘレナが激怒するのも無理はない。

 

ふせったー

公演期間中にネタバレ防止でふせったーに書いたもの(本当に意味不明です)

 

・夏の夜の夢、若者4人が寝てるときのゆうごの肩〜腰〜尻のラインが薄くて骨っぽくて興奮してしまい申し訳ありませんでした

・フィロストレートはパックのメイクをしたままだし、パックのメイクがわかりやすい(鼻筋に白)のは絶対意図的だしな…

・今日劇場出るとき前にいたお姉さんがゆうごの包帯マジの怪我だと思ってて「違うんですよぉおおおお」って叫びそうになった(がまんした)

・おれたちはライサンダーの左腕にある包帯を忘れてはいけない

・今日見つけた亡霊さんのカワイイ 職人たちが森に来たとき仲間の1人を見つけられなくて探してるとき、その様子を見てた亡霊さんも座布団をめくって探している ティターニアのとるリズムでボトムが歌い終わると亡霊さんたちは拍手をしている

・ハーミア、ライサンダーに突き飛ばされたとき地面にペショとなっててかわいかったですね

・台詞、シェイクスピアの書いた内容からとりあえず「(なくても物語の筋には影響しない)テーセウスがギリシャ神話のテーセウスであることを示すための台詞」が抜けてるっぽいんだよな あとそれ以外にもローマ・ギリシャ神話の知識が必要とされるところは抜けてる気がする ライサンダーの「月の女神フィービーが」の節が抜けてたと思うんだよな(ここはうろ覚え) あと当時の社会常識と現代の常識であまりにはなれてるところ?

・ティターニアの台詞が結構落ちてるんだよな~彼女は神話の世界の常識で話をするからだろうか あと子役の台詞も割と落ちてる

・夏の夜の夢、本を読んでるときでもいい加減そうなんだけど、実際舞台で見てみるとマジでワケわからんものがどんどん出てきてマジモンの夢感がすごい 河合隼雄先生も「シェイクスピアは夢というものをよくわかっている」と言っていました マジでしょうもないものとワケわかんないものが脈絡なく(でも必然性を持って)出てくる

・亡霊さんたちの存在によって、「日本(それも日本的な世界観が色濃く残った日本)」がずっと物語の根底に通るようになってる気がする まあ見た目(明らかに黒子)もそうなんだけど、ああやって特に何もしないがそこに”””””在る”””””人ならざるものみたいな それこそ河合先生とかが言う遠野物語とかはああいう存在が人の近くに普通に存在してる世界よな たぶんイギリスにもそういうのはあるんだろうけど 見た目が黒子であることによって観客の大部分を占める日本人の感覚に訴えてるというか…

日生劇場夏の夜の夢、割と常に違和感が仕込まれてるんだよな それこそ亡霊さんはほぼほぼはけずにそこにいるけど、あの世界観で亡霊さんたちは僅かな違和感になるし ライサンダーの包帯も違和感だし 劇中唐突に出てくる車椅子もそうだし

・今日見たかわいい亡霊さんたち ライサンダーとハーミアが「もっと離れて!もっと!そうそこ!」やってる間2人をめちゃくちゃ見てる ハーミアが「離れて!」言ってライサンダーがちょっと離れたところに座る→2人してヴ〜〜〜〜〜〜言うときに亡霊さんも一緒に首を振っている ライサンダーがもう少し離れたところに座ったらハーミアに「惜しい!」と言われると亡霊さんもライサンダーと一緒に「えー!」の顔をしている(多分) ハーミアがそう!そこ!そこでいい!言ったとき亡霊さんも頷いている ディミートリアスがヘレナの顎を後ろから掴むときオーベロンは顔を背けている 亡霊さんも一緒に顔を背けている

・生駒ちゃんの操り人形ですってぇーーーーーーーーーー!!?!?!!!?!? 好きすぎる

ライサンダーが礼賛だー!でハーミアの膝に寝転がろうとしたらハーミアに逃げられてコケたとき、後ろの亡霊さんも一緒にコケててかわいかった

・ボトムの歌でティターニアが起きちゃうとき、亡霊さんみんな「アワワワヮ…」みたいな感じで逃げてちっちゃくなってた かわいい

 

自担 今年も舞台に出る

www.shochiku.co.jp

2022年9月に夏の夜の夢が終わってから、いくつかの媒体で「あまり間をあけずに舞台に立ちたい」と言っていた自担、2023年3月に次の舞台出演が情報解禁されてオタクはひっくり返りました。次はお月さまへようこその中の2作品と星の王子さまが題材になっているらしい。

なんだか特殊な舞台らしく、情報が出るたびに謎が深まっており、これを書いている時点で初日まで1か月切ってるのにどんな作品か一切想像がついていない。

2023/04

アイドルを追いかけていると、ゴールでもないしスタートでもないし、捉え方によっては節目でもないけど、間違いなく「要所に刺すべき杭が打たれたとき」というものが存在すると思う(アイドルに限らず何事にもあることだけど、このブログではSixTONESの話をするのでアイドルに限定しておく)。この杭は意図的に打ち込まれることもあるし、誰もそんなつもりないのに打ち込まれるときもある(これを北海道弁では「打ち込まらさる」と言います)。

SixTONESにおける2023年4月は間違いなく「杭が意図的に打ち込まれたとき」のような気がしてならなくて、情報をまとめておいた方が後々の私のためになる気がする。私はそんなに歴が長くないので書ける情報には限りがあるけど、読めば思い出せる程度に2023/04とそこに繋がる主要な筋を何本か残しておきたい。一続きの文章で説明するのは最初から諦めて、箇条書きで失礼します。

 

 

アルバム「声」

SixTONESの3枚目のアルバム。髙地優吾のボイスパーカッションが入ってきて嬉しかった。ユニット曲がデビュー前のホールツアー(Rough"xxxxxx")でのユニットと同じ組み合わせになっており、それぞれの曲の雰囲気もそのツアーのものと近い。

 

慣声の法則

デビューツアーから数えて4番目のツアー。初日(2023/1/4横浜アリーナ)に追加公演(京セラドーム・東京ドーム)が発表された。

グッズのペンライトは海を漂うメッセージボトルの形をしており(なお実際には酒瓶にしか見えないと評判)、中には「2015年5月1日(結成日)のSIXTONESから未来のSixTONESへ宛てた手紙」が入っている。(SixTONESは結成発表時全て大文字の「シックストーンズ」という名前で、その後すぐにixが小文字かつ無読文字に変更となった)

 

慣声の法則 in DOME

慣声の法則追加公演。京セラドームと東京ドームで全5公演。体感だが倍率がバカ高かった。慣声の法則(アリーナツアー)のセトリをベースとして作られた。

こちらは東京ドームに参戦した日の私のツイート↓

 

Amazing!!!!!!

Jr.時代にSixTONESの方向性を決めることとなった重要なオリジナル曲。しばらく(有観客のon eST〜慣声の法則)姿を消していたが、慣声の法則 in DOMEで2曲目にセトリ入りした。

 

IN THE STORM

デビューコン以来姿を消していたが慣声の法則 in DOMEで復活したJr.時代のオリジナル曲。ジャニーズJr.8・8祭り(2019年東京ドーム、ここでデビューが発表された)で気球に乗って披露された。慣声の法則 in DOMEではそれのオマージュとしてクレーンに乗って歌う演出がされたが(SixTONESANNで言及あり)、マジで一瞬たりとも気球のこと思い出さなくてごめん

 

JAPONICA STYLE

2018年のYouTubeアーティストプロモキャンペーンにYouTubeスタッフから推薦され、抜擢された際にMVを作成した曲。これがジャニーズJr.チャンネルに初めて投稿されたMV。しばらく(有観客のon eST〜慣声の法則)姿を消していたが、慣声の法則 in DOMEのオーラスダブルアンコールで披露された。

アーティストプロモではYTFFに出演したり品川駅やら汐留やらにデカポスター(ジャニーズをデジタルに放つ新世代。)が出たりと当時のジャニーズJr.としてはなかなか凄まじい規模のキャンペーンがされ、Jr.時代のひとつの「杭が打たれたとき」となった。これに関しては先人のブログにいろいろ詳しく書かれているので読んでみてください。

関連動画の再生リスト↓

SixTONES : ジャニーズをデジタルに放つ新世代。 - YouTube

なおこのときの衣装は、少なくともジェシーのものについては2023/5/1時点でまだYouTubeのスタッフルームに飾られているらしい(他メンバーのものについては何も言及がないので不明だが、なんか飾られてるような気がする)。

 

 

Mr.ズドン

ジェシーの友達Mr.ズドン(正体不明)が作った曲。声出しが禁止になる前までの定番コール曲(コール曲?)。慣声の法則 in DOMEでは声出しが解禁されたためかどうかは知らないが、デビューツアー以来に復活した。

 

X JAPAN YOSHIKI

SixTONESのデビュー曲Imitation Rainの作詞作曲者(演奏等もしている)。それ以降も何かと交流があり、ジェシーと飲んだり(どうやら他メンバーとも飲み友達らしい)、ワインをSixTONESのメンバーに贈ったり、SixTONESオールナイトニッポンサタデースペシャルにも何度かゲストに来たりしている。2022年4月のSixTONESANNで樹が「いつか東京ドームでライブするので、初めてそこに立つときは来てください!」と言ったのに対して(全てニュアンスです)、即答で「いつですか?」と返していた。「いつになるか決まってませんが絶対やるので!」という口約束で本当に東京ドーム初日(4/21)にピアノとドラムを持ってやって来た。

後日聞いたところによると、スタッフ同士ではなかなか調整がつかず、結局ジェシーから電話で直接日程を連絡して約束をとりつけたらしい(このためだけに来日したとのこと)。また、Imitation Rainは慣声の法則 in DOMEでセトリ落ちしており、4/21(東京ドーム初日)には日替わり曲の枠でコラボで披露された。また、登場はサプライズのはずだったが、事前にYOSHIKIさん本人がインスタ等でドームでリハしていると言っていたために開演時にはみんな知ってしまっていた。

 

ABARERO(SixTONES 9thシングル)

完全ノンタイアップで、初ドームライブのために出されたシングル表題曲(カップリング曲はCMに使われている)。かなり攻撃的で、あまりシングルカットされない系統の曲。これまでSixTONESが出すシングル曲はタイアップ等の関係でポップな曲やバラードが多かったが、それによってブレかけていた方向性を修正するためにメンバー自身が曲を選んで決めたとのこと(SONYからは最初別の系統の曲を提案したが、メンバーたちからの意見で「じゃあそれをやってみよう」というくだりがあったらしい)。SixTONESを再提示すると共に地盤を固める役割を持つシングルとなった。(これを書いている時点ではまだ発売されたばかりなので本当にそうなるかどうかは少し経たないとわからないが、まあ多分そうなるだろう)

 

こっから(SixTONES 10thシングル)

森本慎太郎が髙橋海人とW主演しているドラマ「だが、情熱はある」の主題歌。無論タイトルも歌詞もドラマにハマるものになっているが、SixTONESが出すシングルという側面から見ても「SixTONESを再提示した9thシングル」の次に「今までの全てを集約したドームライブ直後」のタイミングで出すものとしてあまりにも出来すぎている。また、このドラマでは森本慎太郎本人も巨大なターニングポイントを通過しているような気がしてならない。

 

 

思い出したり新たな情報が出てきたりしたら追記します。

 

自担じゃない人

初めて見たのはたぶん小学生の頃読んでいた「ちゃお」の特集ページでだと思う。

いつ買ったやつだったかも覚えてないし、そこにいた6人組がKAT-TUNだったかどうかも定かではないけど、多分そうだった気がする。今思えば上田竜也であろう人が載っていたような記憶がうっすらあるからだ。当時の私はかわいい顔の男が大好きで、そのアンテナに引っかかって印象に残ったのだと思う。ただ、当時ジャニーズとは何なのか全く知らなかったし、そもそも三次元に興味がなかったので、結局彼らの顔も名前もほとんど記憶に残らなかった。

 

その後私がKAT-TUNに再び触れたのは、20代も半ばになって突然ジャニーズに落ちてからだった。それ以前はジャニーズに全く興味がなかったので、「ジャニーズにはKAT-TUNというグループがある」ことくらいしか知らなかった(厳密に言うと、ジャニーズのことなど普段は微塵も頭の中になかったので、自分がKAT-TUNのことを知っていたかどうかもあやふやだが、なぜかKAT-TUNの人数が減ったことは知っていたので、つまり恐らくKAT-TUNというグループがあることは知っていたということだろう)(ちなみに何人から何人に減ったかは知らなかった)。

ジャニーズに落ちた後、ジャニーズ内を少しフラフラした後SixTONESに落ち着いたのだが、SixTONESに落ちながらもおそらくKAT-TUNの何かしらには触れていたと思う(正直よく覚えていない)。ツイートを漁ったところ、「KAT-TUNなら中丸雄一が好き」とは言っていた。あとどうやらリラックマ出の中丸担になりかけていたらしい。

 

こうして自分のツイートを漁らなければならないくらい、どうやってKAT-TUNのコンテンツに触れるようになったのか、ほとんど全く記憶にない。しかしじっくり時間をかけて、いつどこからか全く記憶にないうちに、KAT-TUN、中丸雄一が私の背後に立っていた。

 

深夜帯の家事ヤロウを見た記憶がある。たぶん「へえ中丸さんが家事番組やってるのかあ」と軽い気持ちで録画して見たのだと思う。確か初めて見たのは突っ張り棒の回だった。その直後は毎週家事ヤロウを見るようにはならなかったけど、少し経ったら(ゴールデン進出よりだいぶ前に)毎週録画して見るようになった。今ではバリューの真実と30分被っているので毎週フルでリアタイはしないけど、バリューの真実が終わったら家事ヤロウに変えるし、バリューの真実が再放送の日は最初から家事ヤロウを見ている。

シューイチはいつ見始めたのか全くわからない。気付いたら2週に一度くらい録画するようになっていた。私は将来見返したら面白いだろうな〜と思って報道番組もたまに録画に残すタイプです。旅サラダはごめん見てない。多分これも知らないうちに見るようになると思う。何するカトゥーンは今のところ全て録画している。食宝はごめんなさい見てない。paraviにあるタメ旅は全部見た(例のごとくいつ何がきっかけで見たのかは全く覚えていない)。

ジャにのチャンネルは溜めに溜めている。これには言い訳があります聞いてください。一本見るたびに悶え死んでしまうので時間と体力があるときにしか見れないんです。YouTubeのゆるめチャンネルという環境における中丸雄一の殺傷力すごい。

KAT-TUNのFCには入っている。ハニコンは2回行った(最高だった)。楽しい時間にはまだ行ったことはない(配信は見たし次開催されたら絶対行く)。リリースがあるたび全形態1枚ずつ買う。雑誌は逐一追ったりはしないが、買った雑誌に載っていれば捨てない。

 

自担に比べれば、ものすごくゆるい追い方をしている。ただ、自担をこのくらいで推してるオタクもたくさんいると思うし、私も諸々の事情や自分のテンションによっては自担もこのくらいの(もしくはもっとゆるい)推し方をするだろうなと思う。でも中丸さんは私の自担じゃない。

 

実際に顔を突き合わせて直接関わる人ならまた別の話だけど、私の「一番好きな男」は中丸雄一だと思う。顔が一番好きとかスタイルが一番好きとかアイドルとして人としての姿勢が一番好きとかいうことではなく、総合的に「一番好きな男」が中丸雄一。自担じゃなくて(マジごめん)中丸雄一。なんかもう全く抗えない。気がついたら体が平伏している。そりゃあ人間が相手なんだから好きじゃないところもあるけど、私に対する攻撃力が強すぎる。

ジャニーズの中なら中丸雄一の骨が一番好きだし、中丸雄一が放つ圧倒的な圧が大好物だし、創造力の高さと筋が通ったコンセプトを作り上げる基礎力の高さを勝手に感じて興奮するし、全力でトンチキを打ち出したかと思えば温度感ゼロの何とも思っていないような顔でシビアなメタ的視点を流してくるし(こういう人間が本当に大好き)、何をしても飄々とした違和感が後ろに見え隠れしているような気がする(こういう人間が本当に大好き)。

何か考える前に中丸さんの圧で押し潰された人間から見る中丸さんなので、他の人から見ればなんかちょっと違うんだよなとなるかもしれないが、まあアイドルってそういうものだし良いだろう。あまりにも私が好きな人間すぎる。無条件で降伏してしまう。でも中丸さんは私の自担じゃない。

 

自担とそうじゃない人の境界はどこにあるのだろうか。私が中丸さんのことを自担よりゆるく追っているのは、シンプルに回せるリソースが足りないからという理由が大きい。じゃあもし私の収入が今の10倍で、有り余る時間の余裕があって、いつでも元気いっぱいで、中丸さんのことを自担と同じレベルで追えたら、中丸さんは自担になるのだろうか。そういう状況はほぼあり得ないので何とも言えないが、多分だからといって自担にはならないと思う。

出会う順番が違えば中丸担になっていたかもしれないと思ったことはある。でも別に自担は何人いてもいいはずで、中丸さん「も」自担になっても何ら問題はない。でも中丸さんは私の自担じゃない。明日自担になるかもしれないが、少なくとも今まで(ゆるくではあるが追ってるしものすごく好きなのに)中丸さんが自担になったことはない。

こうなると「自担ってなんだ」という話になってくるが、別に自担という存在の定義は人によって、更に言えば自担ごとに、なんなら毎秒違ってもいい。だから「自担である」とみなせば自担としていいはずだ。でも中丸さんは私の自担じゃないし、私は中丸担ではない。

なんだかよくわからなくなってきた。(私にとっての)中丸雄一って誰ですか?

 

私は自担のことを「視座」と位置づけている。正直視座なんてどこでもいいんだけど、自担を視座としたときが一番楽しいし視線が安定するので、自担を視座としている(視座を自担としているという言い方もできる。正直今となってはどちらが先かわからない)。でも中丸さんのことは自担という視座からは見ていない。そして中丸さんは私の視座ではない。なんだかよくわからないがそこにいる。なんだかよくわからないが気がついたら背後に立っていた。よくわからないうちに私は中丸さんに滅多刺しにされている。でも中丸さんは私の自担じゃない。

 

中丸さんが私の自担じゃなくても誰も困らないし私も困らないのだが、たまに中丸さんを私の中で位置づけるとなんて呼び方になるんだろう?と考えて困る。自担ではない、推しという呼び方もちょっと違う(特に推しているわけではなく抗いようのない力に押し潰されているだけだから)、好きなアイドル?というのも少し違う。結局「中丸さん」以外の呼び方が思いつかない。私のオタク人生における特異点が知らないうちに、なんだかよくわからないがそこにいた(中丸雄一って「気付いたらそこにいる」タイプのアイドルだと思う)。

 

どうしていきなりこんなことを言い出したのかというと、先日のJGRスプラトゥーン生配信で事前予告なしに中丸さんが参戦して、マジでダメになりそうになったためである。先ほど時間と体力が足りないからジャにのちゃんねるを溜めていると書いたのだが、本当は本能的に避けていたからなのかもしれない。否応なしに見せられてしまったYouTube環境下の中丸雄一は本当にやばかったし、本当にダメにされるかと思った(ダメにされたかもしれない)。そろそろ堪忍してYouTubeの中丸雄一を浴びまくり、無事にダメになるべき時期が来ているのかもしれない。ひとしきりダメになった後、私は中丸さんは私の自担になっているかもしれないし、それでも私の自担じゃないかもしれない。

 

JGRスプラトゥーン生配信↓

www.youtube.com

 

 

「中丸さんが追い詰められて落ちたとき静かに『潰す』って言ってる」とのツイートを見かけて確認したところマジで言ってて死ぬかと思った。(18:34)