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夏の夜の夢 予習ノート②(シェイクスピア作品について)

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推しがシェイクスピア作品に出演するとの情報解禁にひっくり返ったオタクの予習ノート②です。①はこちら↓

夏の夜の夢 予習ノート①(シェイクスピアと夏の夜の夢 概要) - ショータイム

 

この記事の最後に読んだものをまとめています。①ではそれぞれについて簡単に紹介しています。

 

「頭に入れておいたら舞台がより楽しめそう!」と私が思ったことを書いた初心者の付け焼き刃ブログ(チラシの裏のメモ)です。私はにわかのド素人ですので、正確な情報・詳細な内容については専門家の書いた本にお願いしますね!

 

目次

 

シェイクスピアの悲劇と喜劇

シェイクスピアの作品は全40作品のうち、喜劇は10~17作品である(分類の仕方によって変動する)[1,3,5]

シェイクスピアの時代は(現代に比べて)作者が誰かということに対する興味が薄く、著作権という概念もなく、劇作家としてのシェイクスピアの名前も無名であっただろう時期の記録は残っていない[1]。また、複数人が同じ脚本を共同制作することも多かった。シェイクスピア作品は全37作品と言われていたが、研究が進んで合作含めて40作品という定説ができた[1,3,5]

ギリシャ悲劇ではヒューブリスが悲劇の一因とされており、[1]ではシェイクスピア悲劇もそれに従っていると指摘されている。ヒューブリス(hubris)はギリシャ語で「(神に対する)傲慢、過度な自信」を表す神話由来の言葉である。シェイクスピアの四大悲劇の主人公(および他の登場人物)たちは、神の仕事とされている復讐を自分の手でしようとしたり、神に成り代わって何者かに制裁を加えようとしたり、といった神に対する無礼をはたらいている(キリスト教では復讐を神の仕事と考える)。[1]では同時に、シェイクスピア悲劇では正しい価値観はひとつであり、主人公が自身の持つ価値観に従って何かしらを否定するが、その否定によって悲劇が生まれているとも指摘されている。

シェイクスピア悲劇の中でも例外的にロミオとジュリエットにはヒューブリスがなく、喜劇的要素と悲劇的要素の両方を用いた構成になっている。

・一方シェイクスピア喜劇では、いろいろな人がいろいろなことを言うが、その全てが肯定される[1,3]。夏の夜の夢でも、登場人物それぞれが好き勝手なことをいろいろ言うが、その全てが肯定される。誰かが誰かに対して罵ったり否定したりすることはあってもそこにヒューブリスはなく、それによって悲劇は起きないし、その罵りや否定も含めて、物語自体がそれを否定することはない。全てを正しいとするということではなく、そもそも「正しい」「正しくない」の区別がない。

シェイクスピア学者ノースロップ・フライによれば、シェイクスピアの喜劇は三段階の構成になっている[1,3]

①始まり:登場人物の心に暗い影が差している

→夏の夜の夢ではハーミアが父に結婚を反対されていたり、ヘレナがディミートリアスに嫌われていたり、オーベロンとティターニアが喧嘩していたりする。

②撹乱過程:アイデンティティの混乱が起きる(アイデンティティが失われたり取り違えられたりして自分がどうなっているのかわけがわからなくなる)

→夏の夜の夢では森の中で若者たちがアイデンティティを失い相手を取り違えて混乱に陥る。また、ティターニアはロバ頭を持つ人間という化け物にぞっこんになってしまう。

③大団円:混乱が収まり、登場人物はアイデンティティを取り戻したり新しいアイデンティティを得たりする

→夏の夜の夢ではライサンダーとハーミアは無事に結婚し、ディミートリアスはヘレナへの愛を手に入れて結婚する。

・攪乱過程においては登場人物たちは日常世界と異なる場所に行くことが多く、夏の夜の夢の「森」はその典型的な例である[1]

・多くの喜劇の大団円では登場人物の誰かしらが結婚する。これは当時が人間は結婚して一人前であると考える時代であったためである。この時代には夫婦は一心同体であり[1,3]、結婚相手はもう一人の自分(ベター・ハーフ)であるとみなされていた。すなわち結婚は「新しいアイデンティティを得る」ことであるので、喜劇の大団円として最適な展開と言える。

 

シェイクスピア作品を支える思想

シェイクスピアはエリザベス朝の時代に生きた人なので、当然のことではあるが、シェイクスピア作品は当時の時代思想の上で作られている。

 

ルネサンス人文主義

シェイクスピアが生きた時代のイギリスはルネサンス真っ只中で、シェイクスピア作品もその影響を大いに受けている。ルネサンスはフランス語で「再生」「復活」を意味する言葉で、ヨーロッパにおけるルネサンスはそれまでの封建社会や神中心の世界観から人間を解放しようという運動である。

ルネサンス以前は、神を絶対的存在とし、人間を罪深いものとする価値観が社会を支配していた。ルネサンスでは社会をその価値観から解放することを目的とし、人間的な美を求める古代ローマギリシャ文化が思想の規範とされた。ルネサンスにおける学問では、ローマやギリシャの古典文化を復興(ルネサンス)させて人々の生き方に役立てようとした。実際、夏の夜の夢にもローマ・ギリシャ神話のエピソードから発想を得た要素が多く用いられている。

ルネサンスの根幹をなす思想はヒューマニズム人文主義)で、これは「人間は絶対に何かしらの間違いをする愚かな存在であるので、己の愚かさを自覚して、より良く生きるためにはどうすれば良いか考えよう」という思想である。

シェイクスピアの描く人間像もヒューマニズムによく基づいており、やらなきゃいいことをやってしまう、好きな人に嫌いと言ってしまう、などといった矛盾した人間像を描き出している[1]。夏の夜の夢でも、ヘレナはよせばいいのにディミートリアスに駆け落ちのことを話してしまう。また、シェイクスピアは矛盾した言葉を重ねる表現(オクシモロン)を多用する。夏の夜の夢では「熱い氷、黒い雪」「音楽的な騒音(不協和音)」という表現が出てきたり、職人たちの芝居が「若きピュモラスとその恋人ティスベの冗漫にして簡潔な一場。とても悲劇的なお笑い(河合祥一郎訳)」という題名だったりする。これらの矛盾を物語自体が否定することはない。矛盾を受け入れるという発想は、ルネサンスにおけるヒューマニズムを支えた新プラトン主義の考え方である。

・多くのシェイクスピア劇には人間の愚かさを指摘する道化役が存在する(夏の夜の夢ではパック)。道化は人間の愚かさを自覚する必要性を説くヒューマニズムに基づく存在である。実際に当時は君主お抱えの宮廷道化師と呼ばれる人たちがいて、君主に対して軽口を叩きながら誤りを指摘する役割を担っていた[1]

 

シェイクスピア作品の認識論

シェイクスピアが生きたエリザベス朝では、プラトンアリストテレスの哲学が社会に根ざしていた[1]。特にアリストテレス哲学では、人が何かを知覚すると想像力(イマジネーション)がその情報を受け取って心象(ファンタズマ)を形成し、人間はその心象を真実として認識するとされている。

・夏の夜の夢には、シェイクスピアがこの(心象を形成するための知覚機能としての)想像力を重要視していたことが窺える場面が複数ある。

例1:ハーミアがイジーアスにテーセウスのもとへ連れてこられたとき、「父が私の目で見てくれたらいいのですが」と言うが、これは「父が私と同じ心象を見てくれればライサンダーとの結婚を許してくれるだろう」という意味だと考えられる。(ハーミアはその後テーセウスに「おまえが父の目で見るべきだ」と嗜められている。)

例2:ハーミアとライサンダーから駆け落ちのことを聞いたヘレナは、ディミートリアスのことを考えながら「惚れた目で見るとたとえ卑しくて下劣であっても立派で堂々したものに見える」「恋は目で見ず心で見る」と言う。

例3:若者たちの話を聞いたテーセウスは、「狂人、恋人、詩人はみんな想像力の塊だ」「恋する者はどんな醜い者でも美しく見えてしまう」「詩人は見たこともないもの、実体のないものを想像してそれに形や名前を与える」「想像力にはそんな不思議な力がある」といったようなことを喋る。この場面でテーセウスは若者たちの話を「あんなのは本当だとは思えない」とした上で、「狂人や恋人、詩人の持つような強い想像力にはあるはずのないものをあることにしてしまう力がある」というようなことを言っている。

※ただしこれに関してはすべて実際に起きたことであるし、裏側では妖精たちがてんやわんやして若者たちを動かしているので、「あるはずのないもの」ではないし、人間には認識できないが全て筋の通った出来事である。この後ヒポリュテは「しっかり筋の通った現実であるような気がしますが」と言っている。

 

世界劇場

シェイクスピア作品に限らず、エリザベス朝の演劇は当時の時代思想、すなわちルネサンスの新プラトン主義をよく反映している。新プラトン主義では、人間とそれを取り巻く大きな世界が呼応するものとされる。その思想から世界劇場(人生劇場)という概念が演劇に浸透した[1]。世界劇場は「この世界はひとつの大きな劇場で、人々はその中で自分という役を演じている・人生は役を演じる芝居のようなもの」という考え方である。

・世界劇場という概念を前提とした構造を持つ劇がメタシアターである。メタシアターは「演劇についての演劇」という意味で、登場人物が自身の演じている意識を示したり劇中劇が組み込まれたりすることで、「観客が虚構の世界を描いた芝居を見ている」という劇構造を取り払った劇のことを言う。

※例えばハムレットの最終場で、ハムレットが死にかけているのを見ている宮廷人に「君たち、青白い顔をして、この出来事に震えているのは、まるでこの芝居のだんまり役か観客だな」とハムレットが言う(河合祥一郎訳)。この台詞によってハムレットが世界劇場で役を演じている一人の人間であることが示され、ハムレットの実在する一つの世界が成立したかのような効果を生む[1]

・夏の夜の夢は典型的なメタシアターで、劇中劇構造を持っている[1, 7, 8]。すなわち、職人たちの劇を貴族たちは笑って観ているが、観客はそれを外側から観ている。さらに、世界劇場という概念を考慮すれば、観客も何者か(神とか天使とか妖精とか)に外側から観られている。また、森の中で若者たちがしっちゃかめっちゃかになっている間にパックが言う「ばかげた芝居を見てみましょう」も、若者たち(人間)の人生を妖精が外から見ているという世界劇場の概念を反映している。この構造によって、「夏の夜の夢を観客(我々)が外から見ている」という枠がなくなり、観客の外の世界まで劇世界が広がる効果が生まれる。

 

韻律(リズム)と押韻(ライム)について

シェイクスピアの時代において劇作家という概念はなく、劇は詩人が書くものであったため、シェイクスピア作品は基本的に韻文で書かれている[1,2,3,7]。韻文とは詩の言葉であり、対する日常の言葉は散文である。シェイクスピアは優れた詩人で、仮に一切芝居を書かなかったとしても詩人として後世に名を残したであろうと言われている[1]

・韻文とは毎行一定の韻律(リズム)が繰り返される文で、シェイクスピアは弱強五歩格(弱強のリズムが5回繰り返される)を多用した[1,2,3]。弱強は英語において自然なリズム、五歩格は舞台上のセリフとして最も適切な長さである。六歩格だとセリフとしては長く、四歩格だと歌うようなリズムになる[2](夏の夜の夢ではファンタジー色の強い場面で四歩格がよく用いられている[7])。

シェイクスピアの時代では詩の形式としては押韻(脚韻、行末で韻を踏む)が普通で、シェイクスピア作品でも初期作品には押韻が多用されている。後期の作品では韻律を守りつつも押韻を使わない手法(無韻詩)が主となった[2]

シェイクスピア作品は基本的に韻文で書かれているが、展開によって韻律が変わったり、散文になったり、無韻詩になったりきちんと押韻がついたりする。このような変化によって、登場人物の心境を表現したり、登場人物の立場や場面の区別を明確にしたりといった効果を生んでいる。

例1:第一幕で貴族たちは韻文で喋るが、その後すぐの場面で芝居の打ち合わせをする職人たちの会話はすべて散文である。韻文と散文で宮廷世界と庶民世界の区別がなされている。

例2:第三幕で職人たちが芝居の稽古をする場面では、職人たちの会話は散文、職人たちが稽古している芝居の台詞は韻文である。また、同じ場面でも妖精は韻文で喋る。散文と韻文を分けることで「現実世界」と「ファンタジー世界」を区別している。また、ロバ頭になったボトムにティターニアは韻文で話しかけるが、それに対してボトムは散文で返している。

例3:第二幕冒頭では、ティターニア付きの妖精が弱弱強二歩格、強弱四歩格、弱強四歩格という歌うようなリズムで喋る。次にパックと妖精の会話的な部分になると弱強五歩格(英語のセリフとしてより自然なリズム)となる。その後のオーベロンとティターニアの会話では更に無韻詩となり、パックと妖精の音楽的台詞との区別がされている。

例4:ヘレナがハーミアにからかわれていると勘違いし罵る場面では、ヘレナの台詞が途中から無韻詩となり、形式的な台詞回しではなくなることで「感情のままにまくしたてる」ような効果が生まれる。

例5:職人たちの芝居は韻文だが、それにガヤを入れる貴族たちは散文で喋っている。(貴族たちは職人たちの芝居を芝居の「外」から冷静に見ている、という立ち位置が散文によって表現されている?)

 

シェイクスピアの時代の演劇

劇場について

シェイクスピアが生きた時代はイギリスの歴史で言えば清教徒革命前である。この時代の演劇は近代演劇とは全く異なっており、近代演劇(現代のいわゆる演劇に近い)というよりも、狂言などの日本の古典芸能に様式が似ている[1]

シェイクスピアが生きた時代、イギリスの劇場には緞帳がなかった。イギリスで緞帳のある舞台が生まれたのは、シェイクスピアの死後に清教徒革命に伴って劇場が閉鎖された後、演劇が再開されたおよそ1660年頃の王政復古期と考えられている[1](この時代の演劇は近代演劇であり、現代のいわゆる演劇に近い)。シェイクスピアが生きていた時代の舞台は平土間の客席へ張り出す形をしており、土間の観客は舞台を取り囲んで芝居を見ることになる。これは狂言などの舞台と同じ作りである。土間には屋根がなく、椅子もないため観客は立ちっぱなしで舞台を見る。更に舞台を取り囲むように3階建ての観客席(椅子あり)が建てられており、追加料金を払えばこちらで座って観ることができた。

シェイクスピアの時代の演劇には大掛かりな装置や照明がなく、場面転換で装置を入れ替える必要がなかったため、緞帳や暗転を使う必要もなかった。更に言えばいわゆる場面転換もなく、役者は何もない空間(何かあっても人間の手でサッと出したり引っ込めたりできる程度のもの)で演じていた。

・いわゆる場面転換がなく、大きな舞台装置も存在しないため、役者の台詞やふるまいによって場所や時を自由に指定できる[1,2]。すなわち、登場人物が「森にやってきたぞ」と言えばそこは森だし、「夜が明けてきた」と言えば劇中では夜が明けようとしている。舞台上の登場人物が直前までどこにいようと、直前に日が沈んだばかりであろうと関係なく、登場人物がそう言ったらそうなる。

シェイクスピア作品の原文には場面設定がなく、更に言えば幕場割もない。[7]には幕場割(第何幕第何場)の記載があるが、これは1623年出版のフォーリオ版に書かれている幕割である。[7]は1600年出版のクォート版を主たる原典としているが、こちらには幕割の指定はないと注釈で言及されている。また、どちらにも場所の指定はない。

 

役者について

シェイクスピアの時代では現代のように同じ演目を連続で何日も上演するということはなかった。同じ劇場で毎日違う演目を上演し、1週間のうちに同じ演目が2回上演されることはほぼなかったであろうと言われている[9]。すなわち、役者は短い準備期間で新しい脚本を覚え、毎日違う演目で違う人間になっていたことになる(=ある期間にある特定の役に特化した役作りはできない)。更に、当時の演劇は劇団制で、ほとんど固定されたメンバーで構成された劇団が上演を行なっていた[5,9]シェイクスピアは座付き作家であったので、当然自分の劇団にいる役者が演じることを前提に脚本を書いたであろうと推察できる。すなわち、特定の役者の存在を前提として、役者個人の個性(見た目や芝居の特色など)を考慮し、短い準備期間でも最大限魅力を発揮できるように脚本を作ったと考えられる(ざっくり言えば当て書き)。実際、シェイクスピア作品では登場人物の外見について台詞中で言及されることが多い[9]

シェイクスピアの時代の演劇には女性の役者がおらず、女役は変声期前の少年俳優が担当していた[1,5,9]変声期前、すなわち成長期の男の子たちであるので、当然身長や顔立ちなどのばらつきが大きいと考えられる。[9]では、以下に挙げるような理由から、夏の夜の夢のヘレナは経験のある年長の子で、ハーミアはより年少の子だったのではないかと言及されている。

(1)ヘレナとハーミアの外見の特徴として明らかな身長差が台詞内で明言されている。ヘレナはハーミアより明らかに背が高い。

(2)ヘレナの台詞はハーミアよりも圧倒的に多く、より(年長の)経験豊富な少年に台詞が多い役を任せたと考えられる。

(3)ヘレナは「厚化粧ののっぽ(メイポール)」と言われている。これは、見た目が成人男性に近づいてきた少年がヘレナを演じており、女装のために化粧をしていて、おしろいなどを顔に塗っているためではないかと思われる。一方、ハーミアは「黒い韃靼人!」と言われるが、これは実際に肌の色が黒いわけではなく、単に「おしろいなどを塗っていない(=女装する必要もないくらい成人男性とは見た目のかけ離れた幼い少年)」ために、ヘレナと比べたら黒いということではないかと考えられる。

ライサンダーはハーミアをエチオピア女!黒い韃靼人!と罵るが、これは当時の定番の罵り言葉だったのではないかと言われている。[9]では、シェイクスピアの他作品や同年代の他作者の作品にも似たような罵り言葉が出てくることも言及されている。

また、ヘレナとハーミアのような2人の女の子の組み合わせ(長身と小柄の組み合わせ、長身の役の方が台詞量が多く、小柄の方は色黒と言われる)はシェイクスピアの他作品にもよく見られると言及されている。

・劇をやることになった職人たちのひとりフランシス・フルートは、ヒロインのティスベをやれと言われた際、「女役はやだ!髭が生えかけてるんだ!」と言うが、この台詞からも当時の劇団では第二次性徴前の少年が女役をしていたことがわかる。(職人たちが寄り集まってできた劇団では第二次性徴前の役者が用意できず、もう髭も生えてきているような青年が女役をしなければならないということであり、すなわち職人集団の素人ぶりが強調されている?)

 

読んだもの

(①にリンクと簡単な紹介をのせています)

[1] 中公新書 シェイクスピア 河合祥一郎 著(2016)

[2] 三省堂 シェイクスピア・ハンドブック 河合祥一郎小林章夫 著(2010)

[3] 祥伝社新書 あらすじで読むシェイクスピア全作品 河合祥一郎 著(2013)

[4] 三省堂 シェイクスピア大図鑑 スタンリー・ウェルズほか 著 河合祥一郎 監訳(2016)

[5] 新潮文庫 決定版 快読シェイクスピア 河合隼雄 著、松岡和子 著(2018)

[6] 白水社 夏の夜の夢 ウィリアム・シェイクスピア 著 小田島雄志 訳(1983)

[7] 角川文庫 新訳 夏の夜の夢 シェイクスピア 著 河合祥一郎 訳(2013)

[8] ちくま文庫 シェイクスピア全集 4 夏の夜の夢・間違いの喜劇 シェイクスピア 著 松岡和子 訳(1997) 

[9] 白水社 ハムレットは太っていた! 河合祥一郎 著(2001)

[10] ちくま文庫 すべての季節のシェイクスピア 松岡和子 著(2022)

[11] 駿河台大学論叢 = Surugadai University studies / 『駿河台大学論叢』編集委員会 編 『グリム童話』にみる個性化--「白雪姫」と「ふたりの旅人」 太田隆士(2008)

[12] 研究社 新和英中辞典 第7版(2003)

[13] 角川文庫 完訳 ギリシアローマ神話 上 トマス・ブルフィンチ 著 大久保博 訳(2004)

[14] 新潮文庫 ギリシア神話を知っていますか 阿刀田高1984

 

喜劇の「いろいろな人がいろいろなことを言う」、多神教的な世界観だな~と思いました ギリシャ神話とか日本の神話とかなんかそんな感じですよね 全く詳しくないのでほぼイメージですが

とりあえず本記事は以上です。③に続きます。

夏の夜の夢 予習ノート③(物語の構造と要素について) - ショータイム