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星降る夜に出掛けよう 予習メモ

舞台に立った去年の自担が非常に好きだったので「舞台やってくれ~~~~~~~~~~」と呻き続けていたのですが、思ったより早く舞台出演の情報解禁があったのでびっくりしてその勢いで予習しました。以下予習内容の備忘録です。

 

思ったより早かったのでびっくりした今年の自担の出演舞台↓

www.shochiku.co.jp

 

以下、元本2冊ともまともに読んだことがなかった素人オタクが手軽に手に入る情報をつまみ食いして作った予習メモ(チラシの裏メモ)です。本ブログの情報は薄目で読んで詳しい情報は専門家の文献にお願いしますね!

 

 

概要

公演名:星降る夜に出掛けよう

原案:齋藤雅文

演出:坂東玉三郎

 

元となる本

公式HPに記載された元となる本は以下の二冊。

[1] サン=テグジュペリ作 河野万里子訳 「星の王子さま」(新潮文庫

[2] ジョン・パトリック・シャンリィ作 鈴木小百合訳 「お月さまへようこそ」(白水社

 

参考に読んだもの

[3] 「星の王子さま」事典,三野博司著,大修館書店 (2010)

www.taishukan.co.jp

[4] サン・テグジュペリと砂漠,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部 言語と文化, (1993) 199.(Permalink : http://id.nii.ac.jp/1399/00012815/

[5] サン・テグジュペリの『ある人質への手紙』の背景,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,36 (1985) 97. (doi: 10.15113/00013714)

[6] 世界史の窓 フランスの歴史 (Y-History 教材工房) (https://www.y-history.net/appendix/wh0601-090.html

[7] サン・テグジュペリの『手帳』の内容と解説,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,46 (1990) 97. (doi: 10.15113/00013593)

[8] サン・デグジュペリの『戦時の記録』の内容と解説,加藤宏幸,岩手大学人文社会科学部紀要,49 (1991) 147. (doi: 10.15113/00013562)

[9] 『星の王子さま』を読む(1) : 「子ども」であることと「おとな」になること,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,57 (2021) 99. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001671/)

[10] 『星の王子さま』を読む(2): 師と弟子と,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,58 (2022) 113. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001839/)

[11] 『星の王子さま』を読む(3) : 「飼いならす」ことのレッスン,芦田徹郎,甲南女子大学研究紀要.Ⅰ,59 (2023) 109. (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1061/00001893/)

[12] サン=テグジュペリ・コレクション6(ある人質への手紙 戦時の記録 2),サン=テグジュペリ著,山崎庸一郎訳,みすず書房 (2001)

www.msz.co.jp

[13] アイルランド詩人 W.B.イェイツの夢,羽矢謙一,松山大学紀要 言語文化研究,32 (2012) 5.  (Permalinkhttp://id.nii.ac.jp/1249/00002244/)

星の王子さま

言わずと知れた有名作品と呼ぶのも躊躇するくらいの超有名作品。世界で五本指に入るくらいの多数の言語に訳されている[3]

あらすじ・構成

語り手が六年前に砂漠のど真ん中で出会った王子さまのことを読み手に語る形式で物語が進行する。

語り手はサハラ砂漠の上空を飛行機で飛んでいたが、エンジンの故障によって一週間分の飲み水しかない状況でサハラ砂漠のど真ん中に不時着した。危機的状況の中、翌朝小さな王子さまのヒツジの絵をねだる声で起こされる。王子さまは語り手が子どものころから求めていた「ゾウを飲み込んだ大蛇の絵を説明なしに理解できる」目を持つ、「ほんとうにものごとのわかる」人だった。

王子さまと知り合った語り手はエンジンの修理を試みながら王子さまの話を聞いた。ただし王子さまは語り手にたくさん質問をするが、語り手の質問には答えないので、断片的な情報から語り手は王子さまの故郷やこれまでしてきた旅のことを知ることになった。

 

王子さまは小さな星にひとりで住んでいて、星にとって悪い草を抜いたり、小さな火山を掃除したりといった「おもしろくもないけどかんたん」な仕事をして生活していた。しかしあるとき飛んできた種から咲いた今までに見たこともない美しい花に心奪われ、花に言われて世話を焼くようになるが、見栄っ張りで気まぐれな花に散々振り回されて、「あまりにも子どもだった」王子さまは花とうまくいかなくなり、花を置いて星を出てきてしまった。

それから王子さまは仕事を探したり見聞を広めたりしようといろいろな小惑星をめぐり、「どうかしている」おとなたちと出会う(6番目に訪れた星で地理学者の話を聞き、花が「はかない」ものであることを知る。ここで王子さまは花に申し訳ない気持ちになる)。王子さまは「おとなって本当にどうかしている」と思いながら、6番目の星で地理学者に紹介された星地球へ向かった。

王子さまが巡ってきた星にはそれぞれ一人のおとなしか住んでいなかったが、地球は今までに見たこともないくらい大きく、王子さまはそこで人間ひいては友だちを探すために何日も歩き続けた。ようやく一本の道を見つけ、歩いていると、ひとつのバラの庭園を見つけた。そこで5000本のバラと出会い、この世に一輪だけの財宝だと思っていた自分の花がありふれたバラのひとつだと知り、自分の持つものの貧弱さを思い知って「こんなものだけじゃりっぱな王子さまになれない」と嘆き悲しむ(ここで王子さまは「目に見えるもの」に捕らわれ、アイデンティティ喪失の危機に陥っている)。

そうして悲しんでいるところにキツネが王子さまに声をかけてきて、王子さまは「悲しいから一緒に遊ぼう」と誘うが、「君にはなついてないから遊べない」と突っぱねられる。王子さまが「なつく」とは何かと尋ねると、キツネは「絆を結ぶこと」と言う。キツネは「きみになついたらどんなに楽しいだろう」と自分をなつかせるように王子さまに頼み込むが、王子さまは「友だちを見つけなきゃいけないし知らなきゃいけないことがたくさんあるので時間がない」と断る。それにキツネは「なつかせた者にしか知ることはできない、がまん強く時間をかけなければならない」と諭し、王子さまはキツネの指導のもとキツネをなつかせることになった。そうしてしばらくして、なつかせたキツネとの別れ際、王子さまはキツネに「大切なものは目に見えない」「君は君と絆を結んだバラに責任がある」と教わった。その後、王子さまは地球上でも急ぎすぎて大切なものを見失っているおとなたちに出会いながら旅を続けた。

 

王子さまの話をここまで聞き終える頃には語り手の飲み水は尽きていた。王子さまに言われて井戸を探しに行く際に、王子さまのふとした一言、「星々が美しいのはここから見えない花がどこかで一輪咲いているから、砂漠が美しいのはどこかに井戸をひとつ隠しているから」を聞いて、語り手もキツネの教え「大切なものは目に見えない」を会得した。その後王子さまは毒蛇に噛まれることによって体を捨て、自分の星へ帰っていった。

挿絵はこの話を書いている「僕」が説明のために描いたというていでつけられている。実際、挿絵はサン=テグジュペリ本人が描いたものである。

 

書いた人

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

・1900年生、1944年没。フランス南東部リヨンの名門貴族の長男。この時代のフランスの代表的な作家。代表作は星の王子さま、人間の土地、夜間飛行など。

・作家であると同時にパイロットとしても活動していた。20代の頃には郵便輸送のパイロットを務めており、30代ではアメリカ大陸縦断飛行やパリーサイゴン間の長距離飛行に挑戦した[1,3,4]第二次世界大戦では飛行隊として兵役に従事した[5]

書かれた時代と場所

星の王子さまは1942年から執筆され、1943年に出版された[3]。このときサン=テグジュペリはドイツ占領下にあったフランスからアメリカへ亡命していた。

・1938年、サン=テグジュペリはニューヨークへ渡り南北アメリカ大陸縦断飛行に挑戦したが、中継地のグァテマラで大事故に見舞われ、ニューヨークに戻って療養生活を送っていた。このとき「人間の大地」を執筆し始め、その後パリに帰ってから完成させた。「人間の土地」は1939年に出版され、アメリカでは「風と砂と星と」としてベストセラーとなった。[3,4]

・1914-1918の第一次世界大戦でフランスはドイツの侵攻を受けながらも戦勝国となった。敗戦国ドイツに対して過酷な要求を迫ったが、これによってドイツ内部の反感を買った。1933年ドイツでヒトラー政権が成立すると、ドイツはフランス侵攻の準備をする形勢となった。1939年に第二次世界大戦が勃発、ドイツはポーランドへ侵攻し、その後1940年5月にはフランスへ侵攻した。わずか一ヶ月でパリが陥落するとドイツとフランスは休戦協定を結び、フランスはドイツの占領下に置かれた。[6]

サン=テグジュペリは1939年の開戦で航空技術の講師として動員されたが、その後志願して偵察飛行大隊に配置された[7]。ここでは「ドイツ軍のただ一度の大攻勢のあいだに、さらに搭乗員の四分の三を失ってしまった」ような危険な任務が行われた[5]

・パリがドイツ軍によって陥落し、仏独間で休戦協定が結ばれると、サン=テグジュペリも動員解除されてフランスへ帰国した。ドイツ占領下のフランスでは飛行機の操縦もできなければ書いたものの発表もできず、サン=テグジュペリアメリカへ亡命することにした[5]アメリカに援助と参戦を求めたいとも考えていた?[1,3])。「人間の土地(風と砂と星と)」が売れたため、サン=テグジュペリアメリカでも名前が知られていた[3]

・1940年末にサン=テグジュペリはニューヨークへ渡り、アメリカ国内のフランス人コミュニティにおける政治的な派閥同士の争いを目の当たりにした。サン=テグジュペリは派閥に加わらず、著作でフランスでの戦争の様子を伝え、「フランス人同士で団結して祖国解放のために戦うべきである」「今フランスのために戦っているのはフランス国内にいるフランス人であり、亡命したフランス人ではない」などと主張した[5]。また、1942年に「戦闘パイロット」を出版し、「ヒトラーの『我が闘争』に対する民主主義の最良の回答」という評価を得た[8]

・1941年末にアメリカが第二次世界大戦に参戦し、1942年に連合軍が北アフリカ(対独協力体制のフランス政府統治下にあった)に上陸してフランス奪還への基盤ができると、サン=テグジュペリアメリカ軍に参加しようと手を尽くし、移動証明書を入手した[5]サン=テグジュペリアメリカで安全な生活を送ることを良しとせず、自身で危険を冒し戦線に立つ者のみが祖国を語る権利を持つと考えていた[3,5]星の王子さまが書かれたのはこの時期であり、1943年に出版[3](印刷?[3])された数日後、サン=テグジュペリ北アフリカへ出発した。

北アフリカでは高齢のために飛行隊への復帰は認められなかったが、ここでもあらゆる手を使ってかつて所属していた飛行隊へ復帰した。その後事故で飛行禁止命令が下るが、またもやあらゆる手段を駆使して回数制限付きの飛行許可を受け、兵役に復帰した。その後回数制限をはるかに超えて飛行し、1944年にコルシカ島の基地から飛び立ったまま行方不明となった。[1,5]

書かれた言語

星の王子さまはニューヨークで書かれまずはアメリカで英語版が出版されたが、サン=テグジュペリはこれをフランス語で書いており、英語版は他者による英訳版である[3]。そもそもサン=テグジュペリアメリカ亡命後も英語が話せず、ようやく英語を勉強し始めたのはアメリカが第二次世界大戦へ参戦した後、米軍への参加を自分で頼めるようにするためであったので、その他の著作ももとはフランス語で書かれている[5][1]の表紙に書かれた原題もフランス語の「Le Petit Prince」である。(日本語に直訳すれば「小さな王子さま」だが「星の王子さま」と訳されたものが定着して以降、これを踏襲するのが通例となっている[9]。)

作品の主題

・「大切なものは目に見えない」はあらゆる紹介文で示される星の王子さまの主題だが、これが具体的にどういうことなのかというのは、キツネが別れ際に王子さまに伝えた「ものごとは心で見なくてはよく見えない」「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみがバラのために費やした時間(や労力)」というところでかなり直接的に説明されており、作中に同様の表現が繰り返し現れる。また、「目に見えないものが隠されていることによって輝きを持つもの」も複数登場する。(どこかに井戸を隠している砂漠、どこかに王子さまが暮らしている星がある星空、どこかに宝物を隠している屋敷など)

・王子さまがキツネに出会った際、キツネは「ぼくを君になつかせて」と頼み込むが、この「なつかせる」には訳者によって様々に異なる訳語が当てられている。原文では「apprivoiser」であり、これは主従関係を表したり「(野生動物を)野生的でなくする」とか「(人間に対して)手なずける」といったニュアンスを持つ言葉である[10]。物語中でキツネの使うこの言葉に直訳「飼い慣らす」を当てると違和感が生じるため様々な訳語が当てられると考えられるが、キツネの教えを考えるとこの違和感のある言葉こそが訳語としてふさわしいとの指摘もある[11]

献辞について

星の王子さまはレオン・ヴェルトに捧げられている。献辞では本来この本が送られるべき子どもたち(または作中の語り手が語りかけている相手)に対して、この本がレオン・ヴェルトに送られる理由(言い訳)が3つも連ねられている。最終的には、献辞は「小さな男の子だった頃のレオン・ヴェルトへ」に書き換えられる。

・レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリの22歳年上の友人で、作家やジャーナリストとして活動していた[1]。ドイツ(ナチス政権)占領下のフランスに住むユダヤ人であるのでかなり立場が厳しく、抑圧されたフランス国内に隠れ住んでいた。

・レオン・ヴェルトに献上されたサン=テグジュペリの著作には「星の王子さま」と「ある人質への手紙」があり、どちらも同時期(アメリカ亡命中)に書かれたものである。「ある人質への手紙[12]」は当初レオン・ヴェルトの著作の序文として書かれたが、結局サン=テグジュペリの単独の著作として1943年2月に刊行された[5]。この1,2か月後に星の王子さまが出版(印刷?[3])され、その数日後にはサン=テグジュペリ北アフリカへ出発した。

・「ある人質への手紙」でサン=テグジュペリは人間に対する敬意の重要性を訴え、アメリカ国内で派閥に分かれ対立するフランスからの亡命者を批判した。「ある人質への手紙」の中には「星の王子さま」の主題を文体を変えて訴えている箇所がある。アメリカへの船に乗っている亡命者たちを「帰る場所のない根無し草」と批判するくだりには以下のような文章がある。キツネが王子さまに説いた「大切なものは目に見えない、大切なものを大切にしたのはそれにかけた時間と労力」に通じる。次の文は[12]に収録された「ある人質への手紙」から一部を抜粋したものである。

だれも彼らを必要としていなかったし、だれも彼らに呼び掛けようともしていなかった。(中略)わたしたちを援けてくれるような友人はすぐ見つかる。だが、援けを求められる人間になるためには時間がかかる。(中略)子どもが要求を出すようになるためには、ながいこと乳を与えなければならない。友人が友情の権利を要求するようになるためには、ながいこと親交を結ばなければならない。古い城を愛するようになるためには、数世代にわたって、その崩壊の修復に財産を使い果たしてきていなければならない。

また、サハラ砂漠で生活した時期を回想する部分には以下のような文がある[12]。飲み水が尽きて井戸を探しに行く語り手と王子さまの会話部分や、王子さまが星へ帰った後の語り手の独白部分と通じる。

言うまでもなく、サハラ砂漠は、見渡すかぎり一様な砂しか見せてはくれない。(中略)ところが、眼には見えない神々が、方向と傾斜と予兆との網目、秘かな生きた筋肉組織をつくりあげているのだ。(中略)それぞれの星が真の方向を定めている。(中略)ある星は、たどりつくことが困難な遠い井戸の方向を示している。(中略)また別の星は、涸れた井戸の方向を示している。(中略)さらにある星は、海の方向を示している。

最後に、ほとんど非現実のものと思われる様々な極が、きわめて遠くからその砂漠を磁化している。思い出のなかに生き残っている子ども時代の家。生きているということを除いてなにもわからない友人などが。

こうやってひとは、自分を引き寄せたり、推し戻したり、いざなったり、抵抗したりする磁場によって、緊張させられ、生気を与えられていることを感じるのだ。主要な諸方向の中心に、しっかりと築き上げられ、限定され、据え付けられるのだ。

その他

・バラのモデルは諸説あるが、妻コンスエロが主なモデルであろうという見方が一般的である。コンスエロは戦後に「バラの回想」と表題をつけた手記を書いており、その中で自分がバラのモデルであると主張している[3]。バラの回想はコンスエロの死後出版された。

サン=テグジュペリパイロットとして生涯飛び続けていたが、何度か重大な事故にも見舞われている。そのうち一度がパリーサイゴン間飛行途中のリビア砂漠への不時着(墜落)で、星の王子さまはこの事故から着想を得ていると考えられる[3]

サン=テグジュペリサハラ砂漠で飛行場長をしていたことがあり、星の王子さま内での夜の砂漠のイメージはサハラ砂漠で暮らしていたときに得たものであることが「ある人質への手紙」から察せられる。また、このときキツネ(フェネック)を飼っていたらしい[1,3]

・王子さまが自分の星で1日に44回も夕日を見た話では、王子さまの星はとても小さいので椅子を少し動かすだけで何回も夕日が見られるが、地球においては「アメリカで正午のときフランスでは日が沈んでいく、もし一分でフランスに行けるならそれで夕日が見られるが、フランスはもっとずっと遠いところにある」と距離のたとえとしてアメリカとフランスが使われている。

星の王子さまは誰のための物語か

・「星の王子さま」は子ども向けの本という形で書かれており、文章も子どもたちに話しかける形式になっている一方で、明らかに読者として「おとな」を意識している。この物語が誰向けのものかというのは議論の争点になっている。[3]

・バラの花のことを話す王子さまは「ぼくはまだあまりに子どもで、あの花を愛することができなかった」と語り手に打ち明けている。この話をしている時点の王子さまは、「仕事を探したり見聞を広めたり」するために星々を巡り、今まで見たこともないような大きな星地球で5000本のバラに出会ったことでアイデンティティ喪失の危機に陥ったり[9]、キツネから「絆を結ぶこと」「絆を結んだ相手への責任」を教わったりした後の王子さまである。王子さまは「眠ってしまった王子さまを語り手がそっと抱き上げて井戸を探しに歩き続けられるくらい」の体格であるので、一般的な人類の基準で言えばまだ小さい子ども(就学前後くらいまでの年齢?)と考えられるが、一般的な人類の基準で考えるべきでないことは確かである。故郷の星で「バラとうまくいかなかった」、その後の小惑星を渡る旅、地球でのアイデンティティ・クライシス、キツネとの出会いと別れまでの流れは、子どもが子どもから脱出し、大人になる際に通る道筋と見ることができる[9]。王子さまは「永遠の子ども」ではないし、作中繰り返し出てきては揶揄の対象となる「おとな」は文字通りの「成人」ではなく、王子さまが道中で会った「どうかしている」おとなのことと見ることができる。「星の王子さま」という作品はおそらく成人全員を「どうかしているおとな」だと思っているわけではないし、実際この作品は「子どものために書かれた本でさえわかるおとな」であるレオン・ヴェルトに捧げられている。

 

お月さまへようこそ

概要

・ジョン・パトリック・シャンリィによる短編戯曲集。①赤いコート、②どん底、③星降る夜に出掛けよう、④西部劇、⑤喜びの孤独な衝動、⑥お月さまへようこその6編から構成されている。作者は作者ノートで「この戯曲集の芝居を数本、もしくは全部上演することになったら、順番は皆様の考えで入れ替えして全く構わないが、多分、「お月さまへようこそ」は最後に残しておいた方が賢明だと思われる」としている。

・それぞれの短編は完全に独立しており、同じ登場人物が複数の作品に出ることもない。(実際上演する際にはこの作品のこの人とあの作品のこの人は同一人物、という設定にしてもいいのだろうが、少なくとも文章中には異なる作品に同一人物が出ているとみなせる情報は一切ない。)

・シャンリィが自身の体験や感情を素直に書いた戯曲集で[2]、出版本冒頭の「作者ノート」にも「この戯曲集の中にはわざとらしく誇張した演技に頼ってしまいがちなものもあるが、信じて欲しい。それでは上手くいかない。私が自分の心で書いたのと同じように演技も、それが最もふさわしい。」との記述がある。

・初演は1982年で、ニューヨークで上演された(日本では東北新幹線上越新幹線が開業し、世界が第二次オイルショックに見舞われていた年)。「お月さまへようこそ」は殺伐とした都会に生きる人々を描いた作品で、最後の短編「お月さまへようこそ」には舞台がニューヨーク・ブロンクスであるとの明確な指示がある。

・シャンリィ作品では人類と宇宙のつながりがテーマとして根底にあることが多く[2]、月、ひいては宇宙が重要な役割を果たしている。「星降る夜に出掛けよう」では、登場人物2人が互いに分かりあう場面に星や惑星の描かれた幕を下ろす指示があり(作者ノートでは「幕を使いたくない場合には、スライド投射でも十分な効果が多分得られるだろう」とされている)、2人は星や惑星が美しい夜空の下でいらないしがらみから解放される。

書いた人

ジョン・パトリック・シャンリィ[2]

・1950年生まれ。ニューヨークのイースト・ブロンクス出身の劇作家。イースト・ブロンクスはイタリア・アイルランド移民が主に住んでいる町で、シャンリィの両親もアイルランド移民である。

・11歳頃から詩や小説を書いており、詩人志望であったが、大学で劇作に出会い劇作家として活動し始めた。大学在籍中には休学して海軍に入ったり、その後さまざまなアルバイトをしたりしていたが、大学に戻ってからは教育演劇学を学び卒業生総代として卒業した。(「お月さまへようこそ」には大学在籍中に軍務があったりその他いろいろな仕事をしていた男が出てくる)

・様々な戯曲を書いて発表した後、「お月さまへようこそ」が評価されて劇作家として認められるようになり、その後も数々の戯曲を手掛けている。また、映画の脚本を執筆したり映画監督をしたりなど、映画界でも活動している。

あらすじ

それぞれの話は独立しているが、どれも「人と人が分かりあう喜び・分かり合えなかったときの悲しみ」がテーマにある。今回は③星降る夜に出掛けようと⑤喜びの孤独な衝動が上演される。

③星降る夜に出掛けよう

幽霊や妖怪たちに囲まれ、頭を噛んだり腹を引っ掻かれたりしている悩める男がカフェでグラスワインを飲んでいる。別のテーブルには痩せた女が女友達と座っている(この友達は人形とする指示がある)。女は自分のことを愛してくれない女との偽善に満ちた薄い友情もどきが嫌になり、口実を作って(自分の頭に水をぶっかけて)幽霊や妖怪に付き纏われている男のテーブルへ行く(なぜ男に目をつけたのかといえば、「ドストエフスキーに似ている(ただしこれは表面的な話ではない)」から)。男が女に話しかけられてもなお幽霊や妖怪たちは男に付き纏い続けるが、女が「真剣に話がしたい」と言った瞬間男に構うのをやめた。男いわく、幽霊や妖怪たちは真剣な話は尊重し、協力もするらしい。女は「まず俗界のことを片付けてくる」と言って女友達を箱に詰め込み、「不要」の紙を貼り付けて蹴り飛ばした。女と男は話をして、互いに胸の内を打ち明けあう。二人が通じ合って正直になり、真剣になって「星降る夜に出掛ける」と、男に纏わりついていた幽霊や妖怪は消え去った。

※この作品を書いたときのシャンリィはドストエフスキーの「罪と罰」にドハマりしていたらしい。

 

⑤喜びの孤独な衝動

ジムはウォルターに連れられて、午前二時に池のほとりで何かを待っていた。ウォルターに一体何をしているのか何度も尋ねるがいまいち答えが要領を得ない。一方のウォルターは、ジムに一世一代の重要な秘密を共有しようとしていた。存分に前置きをしてウォルターは「この池に住んでいる人魚と恋をしている」とジムに打ち明ける。しかしそれを聞いたジムはあまり本気にしていない。どうしてもジムに人魚と会ってほしいウォルターは人魚を呼ぶがなかなか現れない。パーティーで出会った素敵な女との夜をぶち壊され、何も教えてもらえないまま深夜二時まで池のほとりで待たされ靴が台無しになり、勿体ぶった挙句に実在するとは思えない人魚を呼び続ける親友に愛想を尽かしたジムはウォルターを置いて帰ってしまう。ウォルターは親友に理解を得られず孤独に打ちのめされて嘆き悲しむ。その後やっと呼んでいた人魚が姿を現した。

※「喜びの孤独な衝動」という題はウィリアム・バトラー・イェイツの詩「自分の死を確認する前のアイルランド人飛行士」の一節からつけられている[2]。これは1918年に撃墜されてこの世を去った英国飛行士官について、その飛行士の友人であったイェイツが作った詩で、最後の飛行で死を悟った飛行士本人がつぶやいている形式をとっている[13]。詩の中では飛行士がその最後の飛行を喜びの孤独な衝動と称している[2]

 

その他の話の概要はこちら↓

①赤いコート:16,7歳の少年と少女が月光の美しい夜に赤いコートを介して心を通わせる話。

どん底:金も職もなく病に冒された詩人が様々なものを奪われ、魂まで奪われそうになりながら、恋人の支えでまた詩を書き始める。シャンリィの実体験に基づく話。

④西部劇:街に住み、親にこき使われる孤独な少女が大草原の自由なカウボーイと出会い、決闘でカウボーイを守って殺されるも心は救われる。

⑥お月さまへようこそ:昔の彼女が忘れられず、妻と別れて故郷に帰ってきた男が旧友たちと再会する。長年押さえ込んできた思いを爆発させた旧友たちは、思いを通じ合わせたり通じ合わせられなかったりする。

 

予習メモは以上です。

ここまで書いといてアレですがマジで予習いらない気がします。様々な事前情報から察するに元本をそのまま使うストレートプレイ!みたいな感じでもなさそうなので、私は予習内容を全て忘れた上で観劇に臨む予定です。