Come Blow Your Horn 〜ボクの独立宣言〜 (2024年10月、新国立劇場・森ノ宮ピロティホール)の観劇後覚え書きです。
セット・構成
アランのアパートのリビング。色とりどりの壁紙、正面に観音扉(玄関)、上手に寝室への扉、下手にキッチンへの入り口。キッチン入り口と玄関の間にバーカウンター、キッチン入り口の横に暖炉。上手には異様に背の高い窓(多分天井もかなり高い)、窓際には低いカウンター。バーカウンターにはカウンターチェアが二脚、窓際のカウンターには事務椅子が一脚、下手にリラックスチェアと電話台に乗った電話、上手にカウチソファ。家族との団欒を想定した部屋ではないし、一人暮らしにしては椅子が多い。いかにも一人暮らしのプレイボーイが夜な夜な女の子を連れ込むための部屋といった感じで、アランの生活が垣間見える家具の取り揃えである。開幕・幕間・閉幕では幕が開閉するが、それ以外の転換はなし。
・二幕構成。開演前はホールや客席にコニー・フランシスなどが流れている。幕の開閉にも音がつく。幕が開き切った後は幕が閉じるまで、チャイムと電話のベル以外の効果音等はほぼ無し。歌等もほぼないので、役者の台詞と動作だけで物語が進行する(ほぼ:二幕冒頭ではバディが口ずさみながら踊っている)。(ブロードウェイ作品ということで勘違いされることもあるが、舞台Come Blow Your Hornはミュージカルではなく完全なストレートプレイ作品である。)
・本編中にはほぼ音楽等は流れないが、一幕中盤のママが来るシーンでは一瞬照明が暗くなって音楽が流れる。当初は三幕構成で作っていたのかもしれない。
主演について
・Come Blow Your Hornは通常兄のアラン役が主役とされるが、今回は弟のバディが主役とされている。演出の先生の前々からの構想を形にしたものとのこと。
・ニール・サイモン戯曲集Ⅰ(1984年、早川書房)を読む限り、そして(読んでいないので何とも言えないが)おそらく現版も、そもそもアランが圧倒的な主役というよりもどちらかといえば兄に軸のある兄弟の話という印象が強い。今回の公演に関しても、兄弟のどちらかというよりは「兄弟の話」という印象が強かった。
・アランに注目するのであれば、長いモラトリアムを過ごしてきた男が失恋をきっかけに現実に目覚め、弟を通して自分の人生および家族との在り方を見直す話であって、最後には兄の自立を描き切って終わる。一幕冒頭にはあたかも「実家を出る=自立」のように考えているような兄弟の会話があるが、アランは一人暮らしこそしているものの、別に自立はしていない。何やかんや子供のような言い訳をして仕事はしないし無断欠勤するし問題も起こすし、父が雇ってくれているから職があっただけで、そうでなければとっくにクビの勤務態度である。30過ぎまで両親に依存して好き放題生きてきたアランは、ついに父からクビを言い渡された上に本命彼女コニーに振られ、そこで初めて自分の生活を振り返り、3週間徹底的に努力して自立する。営業(会社の一員)として契約を取れる力を実績をもって示せるようになり、一人の大人として家庭を持って親族を大切にできる度量を身につける。この物語では自立して身を固めることと結婚がほぼ同義で繋がっている。時代的な背景も大きいだろうが(Come Blow Your Hornは1960年代の作品)、コニーに振られるまでのアランの放蕩ぶりは「結婚を決意できない」に象徴されるような覚悟と責任感のなさに起因しており、それを改めることが結婚に繋がったという面もおそらくある。仕事に関する父親との言い合いを見ても、一幕のアランには1人の大人として働いている自覚は感じられない。仕事をしろ!と怒る父親に子供のような言い訳をしていたアランは、最終的に大人としての責任を自覚して社会に参加するようになり(=ちゃんと自立し)、その結果として本命との結婚も決めるのである。
・バディに注目するなら、兄の後追いで育ってきた青年が家出と兄の結婚を経て真の意味で自立していくことを予感させる話である。バディは「いい加減そろそろ自立しろ」と言われているアランとは違って、両親と兄から徹底的に赤ちゃん扱いされている(今回の翻訳版ではもう23歳、原版でも21歳なのに)。物語は赤ちゃん扱いしてくる両親に嫌気がさしたバディがアランの家へ家出してくるところから始まる。ただし、両親より度合いは低いものの、アランもバディを子供扱いしていることに変わりはないし、バディ自身も実際子供である。家庭内のバランスを積極的に整えに行けるような他者への配慮は持っているが、家庭内で徹底的に子供扱いされるため、そしてアランが「10歳程度の年齢差がある兄」という子供にとっては絶大と言えるかもしれない「常に自分の先を行く(圧倒的に大人に見える)ロールモデル」だったためか、二幕終盤までのバディは大人になるというのがどういうことか分かっていない節がある。劇中でのバディの変化は全てアランの後追いであり、そもそも物語の発端となっている家出も兄の後を追った行動である。一幕以前では一家の子供、赤ちゃんとして過ごしてきたバディは、一幕の騒動を経て二幕で兄のコピーと化す。これはアランの言うところの「男には誰でもそういう時期がある」の「そういう時期」の部分、要するにいわゆるモラトリアムであって、ここでバディはようやく(大人にはなっていないが)子供から脱却したのであろう。兄が一人の大人として自立した後、それまで徹底的に子供扱いされていたバディは、母からは「あなたはもう赤ちゃんではないので好きにして良い」、父からは「父に反対されてもそれは反対ということではない(わかりづらいが多分要するに「好きにしていい」の意)」と言われて、両親からの赤ちゃん扱いからも脱却する。物語としてはここで終わるが、バディには本当は「作家になる」という夢があって、その後は両親の言いなりでもなく兄の後追いでもなく、本当に自分のやりたいことで身を立てていく予感を観客に残して幕が下りる。
・バディが主演となるかどうかはおそらく演出と演技次第である。今回はアランとバディのどちらが主演と言われても違和感のない演出だった。他のCome Blow Your Horn(舞台版)を観たことがないので何とも言えないが、やろうと思えばアランが圧倒的な主人公となるように作れるのだろうと思う。バディを圧倒的な主役に置くのは難しいかもしれないが、これを「兄弟および家族の話」として描き、バディを主役と定義することで、アランを圧倒的な主役としたときとは作品として少し違うニュアンスが生まれる(ような気がする)。
翻訳について
・演出の先生は翻訳物を扱う際にはできる限り新翻訳を作る方針らしく、今回の作品も完全に新規の訳が作成されている。
・脚本の内容自体はニール・サイモン戯曲集Ⅰ(1984年、早川書房)とほぼ同じだが、語句や表現は想定観客(2024年の若い世代)仕様。ニール・サイモン戯曲集Ⅰでは父からアランへの罵り言葉が「極道!」だが今回は「役立たず!」になっていたり、全体的に表現がまろやかになったりしている。
・同じ脚本でも演出や役者によって違いが出るのは承知の上で、登場人物全員がニール・サイモン戯曲集Ⅰよりチャーミングに描かれていた印象。特に父母の可愛らしさが増強されていた。
所感
・役者全員滑舌がエグい
・台詞量が多い多い多い
・初日から会場からドカンドカン笑いが起きていてすごかった
・やっぱり演劇は初演当初の時代背景をある程度頭に入れておいた方が面白く観れる(その時代の人のために作られているため)
・新国立劇場の椅子って油断すると腰痛い
・パパとバディの口論中に震度3程度の地震が来た日があったが、羽場裕一の対応力が凄まじかった(一旦流れを止めた後、「大丈夫だここ頑丈に作ってあるから!」と言って会場の笑いをとり、その後スムーズに元の流れへ戻っていった)
・夜公演は休憩中にロビーで何か食ってる人がとにかく多い(ロビーは飲食可)
・新国立劇場、新宿から歩くといい感じの散歩になる距離ですが夏場は多分きついです
・セット・衣装・メイク・芝居全てにおいて世界観が徹底的に作り込まれている
・色彩とデザインがとにかくかわいい
・普段はペギーみたいな女の子(騙されやすくて頭も良くないがそんなの何の問題にもならないくらいお金持ちでフットワークが軽い)と遊びまくってるアランが本命にするのはコニー(歌手としてバリバリ働いてて実力もあって育ちが良い)なんだな〜
・掛け合いがとにかく怒涛で公演期間終盤にはだいたいちょっと巻いていた
・舞台の髙地優吾からは異様なエネルギーが迸ってて最高!
千秋楽からかなり時間が経ってから仕上げたのでいろいろ抜けてるかもしれないです。