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星降る夜に出掛けよう 観劇メモ・感想

舞台星降る夜に出掛けよう(2023/6/12-21 南座、10/2-28 大阪松竹座)の観劇メモです。

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このリンクは南座

 

目次

 

 

構成・演出

短編戯曲3編からなる構成。サン=テグジュペリの「星の王子さま」と、ジョン・パトリック・シャンリィの短編戯曲集「お月さまへようこそ」から「喜びの孤独な衝動」「星降る夜に出掛けよう」の2編を抜粋。プリンシパルは3名で、各短編に2人ずつが出演する(全体を通して1人が2役演じる)。

 

星の王子さま(髙木雄也、髙地優吾)

・幕が上がると夕暮れの中飛行機が砂漠の上をブーンと飛んでいく(飛行機に棒がついていて、人が持って舞台を横断している)。飛行機は舞台の端から端まで横断するが、舞台の中程で何やら挙動が怪しくなって煙を出し始め、煙を引きながら袖に消えたところでドンガラガッシャンと音がする。どうやら墜落したらしいが飛行機が墜落したとは思えないくらい音が軽い(まあだからパイロットは生き残れたのかもしれん)。

・セットは舞台後方に砂丘が描かれた板?が置いてあるのみ。あとは全て照明と演者の体のみによって空間が表現される。舞台に砂漠のような模様が投影されており、舞台後方の砂丘は遠くに連なっているように見える。空間の奥行きがすごい。

星の王子さまパートは髙木雄也の独白から始まり、この独白で「星の王子さま(原作)をそのまま舞台にしたわけではない」と察する。「語り手が六年前に出会った少年のことを聞き手に話す」という形式は原作の通り。物語の展開自体は原作のエピソードを細かく切り刻んで抜粋した上で物語として成立するように繋げたような作りになっている。

・原作の王子さまは語り手の質問に全然まともな答えを返さないが、この舞台の王子さまは「どこから来たのか」と尋ねれば小惑星の名前まで素直に答えてくれる(地球から見える赤くて大きい星の隣にある黄色くて小さい小惑星330から来たらしい)。

・王子さまは白くて長いマントを羽織っている。このマントの取り扱いは玉様に徹底的に指導されたらしく、確かにそれらしい捌き方をしていた。というか特に星の王子さまの王子さまには舞台上の所作を叩き込まれた痕跡が多めに見受けられた。マントの下は銀色で多少変わった形の王子様的な衣装だが、なぜか背中がガバ開きだった なんでだよ

・原作では語り手は飛行機のもとに留まってエンジンの修理を試みる(最終的に成功して帰還できる)が、舞台の語り手は最初から飛行機を直さない。王子さまと出会ったのも、砂漠を歩き続けた末に途方に暮れて横たわっていた夜明けの出来事である。

・語り手と王子さまが出会ってから急ピッチで「王子さまがこの星のものではない」ことを示す会話が展開される。王子さまは渡り鳥に助けられながら星々を渡り、6番目に地球にたどり着いたらしいが、地球は王子さまがいた星よりも桁違いに大きいので重力に負けていた。また王子さまは時間という概念を持ち合わせておらず、「夕陽を見るためには日が沈むまでの時間を待たなければならない」という語り手の言葉にあまりピンと来ていなかった。確かに時間というのは1日歩いたくらいでは昼も夜も変わらないようなデカい星の上でなければ生まれない概念かもしれない(王子さまは老いとも無縁そうだし…)。このあたりの会話は公演を重ねるごとに明らかに演者の解釈が深まっているのを感じた。

・語り手と王子さまが会話をするうちに歌ったり踊ったりし始める。砂漠のど真ん中で体力を無駄に消耗すな

・おそらくカナリヤ(曲)を劇中に入れるために語り手にカナリヤの歌が好きという設定が付与されている。カナリヤは語り手と王子さまで歌う。このときは舞台に投影された砂漠の模様が消えて赤い照明が中心の演出がされている。

・カナリヤを歌い終わった2人「喉が渇いた!」「僕だってさっきから喉がカラカラだよ」あんなに踊ったり歌ったりするからだよ

・アンサンブルが操る人形によってキツネやヘビの描写も差し込まれる。

・語り手と王子さまは1週間ほど砂漠を歩き続けたようで、その末にやっと井戸を見つける(実際に人間が水なしで生きられる期間を思い出してはいけない)。井戸は舞台上に投影された青い照明、桶はパントマイムで表現される。

・水を飲んだ後王子さまは語り手に「あっちに歩いていくと砂漠の民に出会うかもしれない」と伝え、更に「ぼくはそろそろ星に帰らないといけない」と言い出す。その後すぐ眠った王子さまに語り手が語りかけ、一通り歌い終わると語り手も寝る…と思ったら王子さまが起きる。どうやら寝たフリをしていたらしく、王子さまは語り手が寝ている間に自分の星へ帰ってしまう。ヘビに噛まれることで帰るのは原作と同じ。

・原作では王子さまは1年ほど地球で旅をしていたが、舞台では1週間であり、ずっと「(語り手を)助けるようにと空から声が聞こえていた」とのことで、語り手を助けるために地球に来たらしい。語り手と別れる前に王子さまが伝えた通り、語り手は王子さまが帰った後三日三晩歩き続けた末に砂漠の民に救出される(この話はサン=テグジュペリリビア砂漠への墜落の話に似ている)。

・王子さまいわく「地球では体が重い もといた星では鳥も人も雲もあまり変わらなかった」らしく、これは地球がデカくて重力が大きいからという説明が語り手からされている(そりゃそうだ)。原作でも王子さまは自分の星から地理学者のいる星までは(おそらく)渡り鳥の旅を利用して生身のまま旅をしたが、地球から自分の星へ帰るときは毒蛇の力を借りて重い体を捨てていく(これは舞台も同様)。なぜ地球から帰るときだけは体を捨てなければならなかったのか、原作では「星が遠すぎて重い体を運んでいけない」との説明しかないが、舞台ではこれを重力でより具体的に説明している? 星の王子さまパートは基本的に原作のエピソードや台詞を組み立て直して作られているが、ところどころこうしてオリジナルの設定や台詞が差し込まれている。

 

つなぎ①

星の王子さまが終わるとアンサンブル勢が出てくる。話と話の繋ぎにはアンサンブル勢のダンスか演者の歌が使われており、星の王子さまと喜びの孤独な衝動の繋ぎはゴリゴリのコンテンポラリーダンス。終盤では舞台上に月が投影されて、アンサンブル勢が一列になって月の上を歩き、舞台奥からジムとウォルターが談笑しながら歩いてくる。月が欠けていって舞台が暗くなり、次に照明がついたときには場は喜びの孤独な衝動に変わっている。


②喜びの孤独な衝動(髙木雄也・中山優馬

・脚本は訳本通り。

・ジム(中山優馬)とウォルター(髙木雄也)が舞台の縁にうつ伏せに寝転がっており池を見ている(客席が池となる位置関係)。照明は2人を中心として狭い範囲に投影された水底のような青い照明とピンスポのみ。セットもなく、初めは遠くから雑踏の音が聞こえているがすぐに消える。照明の範囲外に無限に広がる空間が存在する気配はするが、ジムとウォルターがいるのは2人がいる限られた領域だけという雰囲気。

・開放的かつ閉鎖的な空間で、人の入れ替わりもなく2人の会話のみによって物語が進行する。脚本自体がコミカルに作られており、2人の会話の間とテンションの差異が絶妙なこともあり、会場の笑いを誘っていたが、会場が笑えば笑うほどウォルターの孤独な立場が強調されていく。

・松竹座公演では南座公演よりも会話が砕けており、2人の立ち位置と見ているものの差がよりわかりやすくなっていた。

・最後にウォルターを呼ぶ人魚の声は録音された女の声で実体は出ない。これによって人魚が実在するのかどうかわからなくなる。

 

つなぎ②

喜びの孤独な衝動の流れで髙木雄也が雨(安全地帯)を歌う。これは歌詞からして喜びの孤独な衝動のエンディングの位置になっていると思う。雨が終わると暗がりに置いてあったキーボード(喜びの孤独な衝動の直前に出てきていた)で中山優馬ビリー・ジョエルのHonesty(訳詞)を弾き語りする。これは喜びの孤独な衝動のエンディングとも、星降る夜に出掛けようのオープニングともとれる。

 

③星降る夜に出掛けよう(中山優馬、髙地優吾)

・星降る夜に出掛けようは「女友達との表面的な友情に辟易しているやせ細った女」と「ドストエフスキーみたいな鬱屈とした男」の二人芝居だが、中山優馬が演じるにあたって「女」が「青年」になっている。ただし脚本はほぼ訳本通りで、女性口調で訳されていたものが今回の舞台では男性口調、一人称は「僕」に変更、「君は恋愛を求めているの?」「そう」「じゃ、僕に求めても無駄だよ」というやりとりが消えている程度の変更しかされていない。女性的な台詞が残っており、女友達は女友達のままなので、もとの脚本の「大して仲良くないし互いに好きでもないけどズルズルと行動を共にしている女同士の女子会」の雰囲気がそのままになっている。

・始まりでは青年と女友達だけが舞台上にいてテーブルを囲んでいる。女友達は4人で、アンサンブルメンバーが体部分のぬいぐるみとお面をつけて動きを演じており、青年に対してリアクションもとる。元の本では女友達は「人形」との指定があるが、その人形が青年の発言に合わせて動くことによって青年の台詞に現実味が増している。女友達は女らしさを誇張した緩慢な動作をしている。セットは椅子が5つとコップの置いてある小さいテーブルのみで、舞台上には照明で窓のような模様が投影されている。

・男の方は青年が話しかけるときに初めて出てくる。男は四つん這いになった妖怪か幽霊の背中に座って足を組みタバコを吸っており(パントマイム)、テーブルも妖怪か幽霊が役割を果たしている(跪いた妖怪か幽霊が両手を男に差し出してテーブル?灰皿?にしている)。

・青年が友達を箱に詰めて舞台袖へ蹴り飛ばす場面では人が箱を持ってきてくれるし、青年が友達の一人を掴んで箱に入れると他の友達は自ら箱に入っていく(人形をつけたアンサンブル勢が仮面とぬいぐるみ部分を脱ぎ捨てて箱に入れる)。ここで椅子も撤去される。女友達が去ると窓のような照明は消えて全面青基調の照明になる。

・青年と男が星降る夜に出掛けると妖怪や幽霊は消え、舞台上から客席までの天井や壁に設置された星球がつく。特に1階席から観たときには本物の星空のような奥行と広がりが感じられて迫力があった。

シャンパンを開けて注ぐ音は録音で、演者の動きと音で実際にそこにあるかのように見せている。

・最後に髙木雄也が「僕も仲間に入れてよ!」と入ってくるがめちゃくちゃ唐突すぎてちょっと面白い(松竹座ではこの台詞がなくなっており、特に何の台詞もなくヌルッ…とログインしていた)

・女が青年に変更され、「君は恋愛を求めているの?」のくだりが消えたことによって、男の「僕は女性と暮らす努力をしてみた」から始まる台詞の土台がなくなるので、この台詞の扱いが難しそうだなと思った。

・星降る夜に出掛けようは女友達への罵倒から始まるし、女友達を始末するシーンが衝撃的だが、おそらくこの女友達というのは単に「自分が自分の人生と真剣に向き合わなかった結果生み出してしまった、ただただ自分が浪費されるだけの何か」の象徴であって、別に必ずしも女友達である必要はないのだろう。

 

歌と踊り

パンフレットに記載の演目では3つの短編の後に「歌と踊り」が書かれている。1人1曲ずつ披露する。全員和訳詞。

中山優馬:The Stranger(ビリー・ジョエル

②髙木雄也:Mack the Knife(クルト・ワイル)

③髙地優吾:The Saga of Jenny(クルト・ワイル)

その後3人で情熱(安全地帯)を歌い、そのままカーテンコールに入り幕が下りる。

 

所感

・とにかく美しい舞台だった。人間が1人で動かせないようなセットは星の王子さま砂丘くらい、小道具も必要最低限という非常に簡素な舞台上で、照明と演者の動きで空間の奥行きや広がりが的確に表現されていた。劇中全ての場面が美しかった。

・1階で観たときと2階・3階で観たときとでは作品の印象がかなり違った。舞台上に何らかの模様が投影されることが多いのだが、1階から観たときにはこれが見えない。その代わりに似たような照明の効果は感じられる(例:舞台上に月の模様が投影されているとき1階席からはそれが全く見えないが、代わりに演者が月明かりに照らされているように見える)。星降る夜に出掛けようの最後には無数の星球で星空が表現されるが、この星空の迫力が凄まじく、特に1階席から観たときには本当の星空かのような無限の奥行きと広がりを感じられた。

・確実にミュージカルではないのだが、単にストレートプレイと呼ぶのも違う気がする。ストレートプレイとかミュージカルとかショーとか、そういった舞台上で展開される代物を全て繋ぎ合わせたような印象を受けた(混ぜたのではなく繋ぎ合わせている)。

南座(6月)で観たときは演劇というよりも難解なコンテンポラリーダンス作品を見たような感覚で、場面の美しさと抽象的概念を楽しむ作品だと思っていたが、松竹座(10月)では完全に覆された。特に松竹座の後半では南座および松竹座序盤から大幅な変貌を遂げており、戯曲部分が一気に「演劇」になっていた。一体この間に何があったんだ

・私は南座中盤、松竹座1週目、松竹座3週目に観劇したのだが、南座と松竹座1週目では星の王子さまのアプローチが明らかに変わっているのは感じたし、それは演者本人たちもパンフレットで言及していた。また、松竹座3週目には3つ目の戯曲(星降る夜に出掛けよう)が別物レベルにまで様変わりしていた。中山優馬のラジオ(10/24放送)では「本番中に違うアプローチを思いついたので、相談した上でその後の公演でそっちをやってみた」というような趣旨のことが語られていて、ラジオ中では演目名は明言されていなかったが、まあ確実に星降る夜に出掛けようのことだろう。

・私が感じた大幅なアプローチの変化は2回だが、その他にも個々の場面における台詞のニュアンスや間の取り方は毎回違っていて、演者が様々なやり方を試している様子が見て取れた。

・松竹座3週目で私が急に「演劇」を感じたのは恐らくアプローチの変化だけが要因ではなく、全編通して演者に戯曲が馴染んだこと、演者同士の芝居がかみ合ってきたこと、その他様々な要素によるものだと思う。演者本人たちも言っていたようにかなり難しい戯曲なのだろうと思うが、その難しい戯曲の中で公演を重ねるにつれて観る側(というか私)にも芝居の面白さが伝わるようになっていったということだろう。このあたりについて本人たちがどう感じているのかは知らないが、松竹座3週目に観た際にはあまりの変わり様と急に感じた芝居としての面白さで凄まじいにやけ顔になってしまった。「これは役者の”芝居”を見る舞台だったのかもしれない」と思い直したし、そもそも役者の芝居を見るというのがどういうことなのか、ド素人ながらになんとなくわかった気になった。

・この舞台では演者本人たちがかなり自主的に動いていたようで、「玉三郎さんは役者に任せてくれる」という話を演者本人たちからよく聞いた。様々な要素をつなぎ合わせたような演目の構成といい、簡素な舞台美術や衣装といい、観客側から見ても明らかな演者の主体性の強さといい、なんだか教材色の強い舞台だと思った。キャスティング時点ではほとんど配役が決まっていなかったようで、読み合わせ段階で全役を演じてみて決める、というようなこともしていたらしい。そもそも企画自体の発端からしても、舞台演劇を志す若手を育てる舞台だったような気がする。(上述の通り、ついでにオタクも観劇能力を育てられてしまったような気がする。)

 

自担について

・舞台単独出演2回目。去年の夏の夜の夢で舞台に目覚めたらしく、千穐楽後に「近いうちにまた舞台に出たい」と各所で主張していた。
・今回は本番が近付くにつれてブログでのたうち回っていることが増えた。今回の舞台はだいぶ難しかったらしく、南座期間の途中でも「スキルアップしたい」「終わったら強化月間を設けて…」と言っていた。
・「四つん這いの人間の背中に足を組んで座り猫背でタバコを吸う」「ジャケットの内ポケットからタバコを取り出す しまう」「自分の前に跪いて両手を差し出している化け物の手を灰皿にする」動作があまりにも似合ってて狂うかと思った。

・とにかくパントマイムが上手い…というよりは「そうじゃない」ものを「そう」にする能力がバカ高かった。当たり前のような顔をして人間を椅子にするし、人間の手を灰皿にするし、存在しない井戸の水を汲むし、存在しないシャンパンを存在することにしていた。

 

The Saga of Jennyについて

・最後の「歌と踊り」でのソロ曲は自分の希望を出すこともできたらしいが、これは玉様にお任せしたら渡された曲らしい。ミュージカルLady in the Dark内で歌われるバリバリのジャズ系ミュージカル曲で、こういう曲を歌う自担は本当に初めて見た。SixTONESでもこういう曲は現時点では出ていない。
・曲の良さで押し切れるような曲ではなく、シンプルに難しいし、歌唱力がモロに出る曲だと思う。演出もおそらくミュージカルを意識していて、ミュージカル内の1シーンのような作られ方だった。本当に難しいと思う 玉様からの課題曲なのかも
・ここでもナチュラルに四つん這いの人間を椅子にして酒を飲んでいた。なんで四つん這いの人間を椅子にするのがそんなに似合うんだ
・アンサンブルの方々と一緒に踊るのも似合っていた。たぶん「たくさんの何者かを従える」のが似合うんだと思う 星降る夜に出掛けようで妖怪やら幽霊やらに囲まれてるのも似合ってたし 自分が増殖するのも似合うし

 

観てる側にもかなり糧になった面白い舞台でした。自担〜これからも舞台に立ってね〜