ショータイム

狂喜乱舞するブログ

独立宣言、前日譚

髙地優吾は毎日ブログを更新するアイドルである。

SixTONESがデビューした年、結成日にメンバー全員の個人ブログが開設された。髙地さんのブログには当初から「毎日更新を目指します!」と銘打たれており、今現在まで更新が途切れた日はない(あくまでも「目指す」なのでもしかしたら将来的には途切れる日もあるのかもしれないが、とりあえず今現在までは途切れていない)。

ただし毎日更新しているとはいえ、彼自身の生活や動向はいまいち見えてこない。最初からかどうかはわからないが、基本的にブログは「こちゆご」というキャラクターを纏った状態で書いているらしい。ブログ内では基本的に自分のことをこちゆごと呼ぶこと、たまに本人が「今日のブログは髙地優吾だな」と言い出したり署名つきで髙地優吾が登場したりすることから、恐らくこちゆごは髙地優吾とは地続きでありつつも別の人格みたいなものなのだろうと私は思っている。こちゆごは毎日そこそこの文字数のブログを更新するが、大体の日は情報らしい情報がありそうでほとんど何もない。現実世界の中に厚めの壁で囲まれた亜空間を作って、その中に固有の世界を構築したかのようなブログが日々更新されている。現実との境にある壁が分厚いので、ブログ世界には現実がうっすらとしか滲んでこない。

しかしたまには現実世界の重要な出来事がブログ内容へ割とダイレクトに反映される日もある。2021年11月末頃、何やら呻き声が九割を占めるブログが上がってきた。まあ九割呻き声なので情報量はほぼゼロと言っていいのだが、「やんのか?やられるのか?」のようなニュアンスの言葉が入っていることから、何かしら挑む必要のあるものが降りかかってきたことだけはこちら側にもなんとなくわかった。「(異様なブログを上げた)理由は今度話すね」みたいなことも書いてあったが、記憶の限りでは結局これが明確に説明されることはなかった(私が忘れているだけの可能性はある)。

というわけでこのブログが何について書かれたものだったのか私は知らないのだが、後になって思えばこれの可能性は高いな…というものはある。

髙地優吾はあまりドラマや映画に出ない。デビュー以降では今(2024年10月)のところ映画には出ていないし、ドラマは深夜30分枠の連ドラレギュラーが一度、あとは連ドラにゲストで何度か出たくらいである。2022年4月、特捜9の第3話にゲストで髙地さんが出演した。舞台演出家殺害事件の容疑者で、気が強くて不器用な舞台俳優という役柄だったのだが、これがまあ非常に良かった。白羽行人(役名)のキャラクター造形が非常に魅力的で、そのキャラクターと髙地優吾の親和性も高く、ついでに久しぶりに見た彼の演技もそれ以前より圧倒的に良かった気がした(ただし出ている数自体が少ないので以前のものと比較できるかどうかは微妙である)。我々(オタク仲間)は大いに盛り上がり、見た後しばらくは延々ドラマの話をしていたし、私は「いやーたまにでも自担の演技を見るのって良いもんだなー」とか呑気に思っていた。しかしその後すぐにそれどころではない事態が発生する。特捜9第3話からおよそ1か月後、舞台夏の夜の夢のキャストが解禁された。

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ライサンダー:髙地優吾(SixTONES

シンプルにひっくり返った。シェイクスピア中村芝翫主演?日生劇場?何?(右往左往)

事務所の先輩が主演を務めるドラマに出るというのはあまり俳優業をやらないタレントでも割とあることなので(特にゲスト出演)、ファンとしては喜びはしてもあまり驚くことはない。また、他に事務所の人間が出ていない映画やドラマであってもここまで驚きはしなかったと思う。これはなんとなく「自担は芝居をするとしたら映像寄りなんだろうな」と私が勝手に思っていたためである。これに関しては特に根拠はない思い込みなのだが、ただ、髙地優吾はこのときまで事務所外部の舞台に出演したことがなかったし、デビュー後は(まだそんなに年数経ってなかったけど)一切舞台に出ていなかったし、そもそも舞台に出たいという話も聞いた覚えがないというのがこの思い込みに一役買っているのは間違いない。というかそれ以前に、少なくともデビュー前後以降、この解禁があるまでの彼は演技仕事に積極的ではなく、映像・舞台に関わらず演技仕事をしたいという発言自体聞いた記憶はほとんどない。厳密にはあったかもしれないが、強く印象には残らない程度の回数や強さであったことに違いはないと思う。バラエティ仕事の方が圧倒的に強く、何らかのリリースの度に様々なバラエティ番組へ宣伝に出かけては、初めて出る番組で「3年前からレギュラーですけど」みたいに馴染んでいるような露出の仕方をしていた。私はその姿に慣れきっていて、少しは出演を見慣れているドラマ等ならともかく、完全な外部舞台に単独で出演するという事態は全く想定もしていなかったのだ。

そう(無意識に)思い込んでいるところにこの情報解禁である。いきなり外部舞台で古典中のド古典と言われるシェイクスピア、主演は歌舞伎役者、事務所の誰かがキャスティングされる流れはあったであろうとはいえ他に同事務所の出演者はいない。私にとっては完全に想定外の更に外の出来事で、死角から殴られたような衝撃を食らい、殴られて気絶している間に気が付いたらそこそこの数のチケットが手元にあったしそこそこ長い予習ブログが完成していた。私はこのときまで予習なんてほぼしたことがないオタクだったが、さすがにシェイクスピアクラスの古典になるとある程度知識があった方が観やすいだろうなと想像したのと、何より自担がこういった舞台に出るのがあまりにも初めてかつ想定外のためどう気合いを入れたらいいのかよくわからず、有り余った気合いが行き場をなくした結果、結構な長さの予習ブログを錬成してしまっていた。

この日生劇場の夏の夜の夢は中村芝翫・井上尊晶・松任谷正隆河合祥一郎が中心となった、シェイクスピア作品を中村芝翫主演で上演するプロジェクトの第二弾である(第一弾はオセローで、同事務所からは神ちゃんが出ていた)。キャスティングのコンセプトは「ごった煮」らしく、確かに第一弾・第二弾共にありとあらゆるキャリアのキャストが揃っていた。その中でも自担は舞台経験がかなり浅い方ではなかっただろうか?私の初観劇の日は2階席で、やたらと高さのあるセットを見ながら早めに席に着いてソワソワしていた。ライサンダーは冒頭のくだりから登場する。高く組まれたセットのそこそこ高い位置から飛び降りてきた彼の第一声を聞いた瞬間、またもやひっくり返ることになった。

全く知らん自担の姿でぶん殴られた。自担の姿をした見たことのない人間が板の上に立っていた。当方演劇自体あまり観たことのなかったド素人のため、これがどの程度の実力なのか、このキャリアに対してこの演技は実際どの程度のソレなのかは正直全くわからないが、そんなのは大した問題ではない。とにかく知らない人間がいたのだ。役が入っているからではない。マジで誰だお前。おそらく私はこのとき初めて舞台役者としての彼を見たのだと思う。

ただしここで注意するべきは、私がそれまで舞台作品に出演する髙地優吾を見たことがなかったことである。外部舞台への出演は初とはいえ、Jr.時代にはいわゆる事務所の内部舞台に立ってきた人なので、別に舞台作品が初めてというわけではない。ただ私がかなり新しいファンであるのと、住んでいた場所や当時の状況など諸々の事情で内部舞台に出演する彼を見たことはなかった。しかし内部舞台も観てきたであろう古参のファンにも「知らん自担がいた」みたいなことを言う人を見たので、全ての人から見てそうなのかどうかは知らないが、やっぱりあれは初めて我々に見せる姿だったのかもしれない。

夏の夜の夢は初日と2日目が中止になり、本来の3日目が初日となった。私は初日のチケットを失いつつも結局そこそこの回数観劇した。シェイクスピア作品なので(さすがに役によって差はあるが)登場人物全員の台詞が多く、言い回しもほとんどいわゆる口語ではない。幕が上がってからわかったが、演者に個別のマイクはなく、ステージ上にはマイクが設置されているとはいえ、発声技術も結構求められるのではないかと想像できた。私にはそれがどの程度のソレなのかはちょっとわからないが、実際、髙地さん自身マイクをつけずに演じるのに不安を覚えて、話を受けた後から演出家の先生にレッスンを受けていたらしい。私が観た全ての公演で、彼は最後まで一切声を枯らさず、朗々と一ヶ月にわたる公演を終えた。

本当のところはどうなのかわからないが、2021年11月末の呻き声ブログはこの舞台の話だったのだろうと私は思っている。この舞台の話が来たという時期に近く(2021年秋頃本人に知らされたらしい)、他にそれらしきものが今のところ見当たらないからである(この先出てきたら全力で撤回しますがまあもうないでしょう)。髙地優吾のブログは稽古中も初日の中止が決まった日も、中止になった当日も、舞台中も毎日更新されていた。2022年9月、初めて単独で出演した舞台が千穐楽を迎えた日に、彼はブログで夏の夜の夢への出演のことを人生の分岐点だと思うと言い切った。

2022年日生劇場の夏の夜の夢では誰が「ライサンダーを髙地優吾にしよう」と決めたのだろうか。キャスティングの経緯は明かされておらず、本人が「話が来てびっくりした」みたいなことを言っていたのでまあオーディションではなさそうだ、ということくらいしかわからない。事務所から20代半ば〜後半あたりの誰か、ということになっていたのだろうと想像はできるが、これも単なる想像でしかない。というかどんな経緯であろうとそんなことはどうでも良くて、どんな経緯であっても「ライサンダーはコイツにしよう!」と決めた人(もしくは人々)がどこかにいる、というのが重要なのだ。正直事務所内だけで見ても、この年代には彼より遥かに舞台経験も演技経験も豊富な人はたくさんいる。その中でも舞台経験が浅く、少なくともファンの前では「舞台に出たい」とも(ほぼ?)言ったことのない彼が選ばれたのだ。まあそれ自体は「まあそういうこともあるだろう」で済むのだが、千穐楽の日に分岐点と言い切るまでになると誰か見込んでいたのだろうか?まあそんなことは知りようもないのだが、こちら側から見ると何の文脈もないところに舞台の話が降って湧いて、いきなり知らん自担を見せられて混乱しているうちにターニングポイントを宣言されるという、あまりにも激動の半年間であった。

舞台後に出た様々な雑誌で髙地さんは「あまり間を空けずに舞台に出たい」と言ったり、FC動画で「ストレートプレイをやりたい」と言ったり、ラジオでは「のれんが千切れるまで舞台出たい」と言ったりしていた(のれんは事務所へ入った当時からお世話になっている知念くんに作ってもらったとのことだった)。私はと言えば、舞台期間中から終わってからもずっと「また舞台やってくれ〜〜〜〜〜〜」「暖簾がちぎれるまで舞台やるんだったらオタクが夜な夜な保管場所に忍び込んで補修し続ければ一生出続けられますね」など息をするようにツイートし続けていた。本当に舞台が似合っていると思ったのだ。今後何年にも渡って舞台に立つ自担が見たくて、なので「舞台に出たい」という自担のわかりやすい意思表示にいちいち喜んでいた。

とはいえ、「じゃあ来年のこの作品出ようか」とか、舞台まわりのキャスティングがそんなに身軽なものではないことは素人にも想像はできる。同志のオタクとは「今年舞台に出て今後も舞台やりたいってなったら、まあ次は早くて再来年とかかなあ」と話していた。いくらでも待つ気は存分にあったし、その間ずっと「舞台出てくれ〜〜〜〜〜〜」と言い続ける気満々でもあった。

なので、2023年3月、想定よりも桁違いに早い情報解禁にまたひっくり返ることになった。

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早くない!!?!?!!!?!?

夏の夜の夢が千穐楽を迎えてから半年も経っていない。発表された出演者は3人で全員同じ事務所、雰囲気からして規模が大きい舞台ではないであろうと想像はできたが、いったいいつ頃から話が動いていたのだろうか?また、演出家の名前を見て私は(というか我々は)更に困惑を深めることになる。坂東玉三郎、えっ人間国宝…?更に日程もトリッキーで、6月に2週間足らずの京都公演、そこから大阪公演まで3ヶ月も飛んでいる。このとき大阪公演は詳細な日程どころか10月のいつなのか期間も出ておらず、その日の私のTLはオタクの喜びと困惑で大混乱していた。

後々出てきた雑誌等々でわかったことだが、人間国宝坂東玉三郎、玉様は事務所の若手を対象に芝居のワークショップを開いていたらしい。夏の夜の夢の話が来た後、髙地優吾はそのワークショップを受けていて、そのご縁もあってこの舞台が決まったということだった。やけに早いと思ったら、夏の夜の夢の情報解禁よりもはるかに前からあった繋がりで決まった舞台だったのだ。この舞台の話が正式に出る前に、玉様から髙地さんへ「こういうのやろうと思うんだけど」という直電があったらしく、こちらとしては「いつの間に…?」てなものだが、我々が知る由もないうちにかなり関係性が出来上がっていた様子だった。

舞台星降る夜に出掛けようにおいて、情報解禁時に発表されていた題材は「星の王子さま」と「お月さまへようこそ」であった。「星の王子さま」は言わずと知れたサン=テグジュペリの童話(と呼んで良いものかはちょっとわからないが)、「お月さまへようこそ」はジョン・パトリック・シャンリィの短編戯曲集である。お月さまへようこそには6つの短編が収録されており、それぞれの話は基本的に独立していて、登場人物は最少で2人、最多で5人である。追加キャストがあるのか、演者が足りない話は脚本を変えて3人で演じられるようにするのか、登場人物が3人以下の話をいくつか抜粋するのか、解禁後しばらくはどういった形でやるのか一切情報が出なかったが、5月になってようやく、お月さまへようこそからは「喜びの孤独な衝動」と「星降る夜に出掛けよう」を使うと玉様のブログで直々に言及があった。「喜びの孤独な衝動」と「星降る夜に出掛けよう」はいずれも役者が2人で成立する短編である(喜びの孤独な衝動は3人でもいい)。星の王子さまも基本的には語り手と王子さましかその場にいない話なので、ここで「おそらく出演者3人のうち2人ずつがそれぞれの短編に出る形だろう」と思ったし、実際そうであることは後の雑誌やネットニュース等ですぐに分かった。プリンシパルが3名で、各々全体を通して2役を演じる形である。星の王子さまの王子さまは最初から髙地さんと考えられていたが、基本的に配役は3人が演じてみて決めたらしい。

髙地さんはブログでもラジオでも、テーマが「舞台」でない限り、自発的に話題を選べる場では舞台に関する具体的な話はあまりしない。そのため、舞台やその稽古に関しては主に雑誌・ネット記事・優馬くんのラジオが情報源だったのだが、情報が増えれば増えるほどどんな舞台なのか全くわからなくなり、開幕直前の時期には我々はかなり困惑を深めていた。優馬くんはラジオ等で「ストレートプレイでもない、ミュージカルでもない、新感覚の舞台」というようなことを言っていて、また3人ともが「玉様が天才すぎて意図を汲み解釈するのが難しい」と雑誌等で語っていた。実際かなり色々難しかったようで、南座公演前の髙地さんのブログを見た感じではかなり苦しんでいるようだった(ブログには具体的な話は出てこないが悶え苦しむ様子は割と滲み出てくる)。

そうして6月の京都・南座公演が初日を迎えた。私は南座公演の中日あたりに観劇予定だったのでそれまではツイッターでレポを拾い読みしていたが、レポを読んでもやっぱりどういう舞台なのかはよくわからなかった。しかし初観劇の日を迎えて南座へ向かい、実際に観てみると「確かに」と思った。

演者が様々な媒体で話していたように、ツイッターのレポから詳細がよくわからないように、確かに具体的に「何」とは言えない舞台だった。ミュージカルではないしストレートプレイと呼ぶにも少し違う気がするし、もちろんショーでもないのだが、同時にミュージカルでもストレートプレイでもショーでもあって、そういう類のものをおよそ全て繋ぎ合わせて作ったような作品だと思った。全編通して抽象的で精神的で、全くの他人との対話のような、自分自身との対話のような、一対一の概念的な会話で物語が進行する。セットは非常に簡素でほぼ素舞台と言っていいくらいだが、照明が場面ごとに効果的に使われており、空間の広さや奥行きが自由自在に幻想的に美しく表現されていた。

南座で観た星降る夜に出掛けようからは、演劇というよりも難解なコンテンポラリーダンス作品のような印象を受けた。正直言って好みではなかったのだが(コンテンポラリーダンスは好きだし、難解なコンテンポラリーダンス作品みたいな舞台が全て好みでないというわけではない、ただ今回のこの作品が好みではなかった)、非常に美しい作品だと思ったし、作品の魅力や意味もほんのりわかったような気がした。それと同時に、私は南座公演に3回入ったのだが、3回とも演者の台詞のニュアンスや間が少しずつ違っていて、明らかにいろいろ試しているな、とも思った。舞台というなまものにおいて毎公演台詞のニュアンスや間合いが変わるのは普通のことだろうが、この作品からは役者たちが様々な芝居を試しているような雰囲気が特に強く感じられたのだ。

南座公演期間は2週間もなく、なんだかふわふわしているうちに終わってしまった。正直松竹座公演を観たいのかそうでもないのか自分でもよくわからなかったが、その時点では出ていなかった松竹座の日程がいざ出たら、結局大阪に2回行く日程でチケットを取ってしまった。南座で観た3回の公演から、たぶんこれは回を重ねることによる変化を見た方がいいと思ったのだ。 どんな舞台でも回を重ねるごとに変化するのは当たり前だが、この作品は特に変化を見ておいた方が自分のオタク人生にとって良い気がして、1ヶ月にわたる松竹座公演のうち前後半を見られる日程で大阪行きを決めた。

ということで松竹座公演1週目の週末、南座から約三か月ぶりに星降る夜に出掛けようを観た。南座終了時には松竹座公演でどの程度変更を加えるか決まっていなかったらしく、大幅な変更があるかもしれないしないかもしれないと雑誌等で言及されていたが、実際見てみると特に大きな変更はなく、音響照明の充実や若干の衣装の変更、アンサンブルメンバーの追加や細かな演出の変更などといった比較的軽微なアップデート程度であった。しかし大きくは変わっていない枠の中で、役者自身の立ち振る舞いや役へのアプローチが南座から明らかに変わっていた。台詞の間やニュアンスは南座で観た3回でも全て違ったし、松竹座1週目に観た何公演かでも違っていたのだが、もっと根本の方、そこにいるのがどういう人物なのか、そこに来るまでにどういった道筋を通ってきたのかみたいなところが、朧げになりつつある南座の記憶と比較しても明確に変化していた。観た後にパンフレットを読んだのだが、パンフレットでも演者自身が南座からのアプローチの変化に言及しており、つまり事前に決められていたそれが確かに観客(私)の方へ伝わっていたということだった。

更に二週間後の松竹座公演3週目、私が再び観劇した際には更に大きな変貌を遂げていた。先述の通り南座では演劇というよりも難解なコンテンポラリーダンス作品を見たような感覚だったが、松竹座の前半にアプローチの変化というワンクッションを置いて、松竹座公演期間後半には急に「演劇」と化しており、役者の芝居の面白みが全面に出た舞台となっていたのだ。題材も台詞も配役も演出も一切変わっていないのに全く違う作品になっていて、一体私が見ていない間に何があったのかと驚くほどだった。まあ私の捉え方の問題だという説もあるのだが、「前までの公演と全然違った」と言うオタクを他にも複数見かけたので、やっぱり感じた変化は勘違いではないのだと思う。特に3つ目の戯曲「星降る夜に出掛けよう」が別物レベルにまで変わっていたのだが、これについては優馬くんがラジオで「本番中に違うアプローチを思いついたので、相談した上でその後の公演でそっちをやってみた」というような趣旨のことを語っていた(正確には戯曲名までは言及されていなかったのだが、文脈からしてまあ確実に星降る夜に出掛けようである)。またそれまでと同様に、大幅なアプローチの変化とは別に、松竹座の後半でも演者が様々なやり方を試している様子が見て取れた。

このあたりについて本人たちがどう感じているのかは知らないが、松竹座後半で私が急に「演劇」を感じたのは恐らくアプローチの変化だけが要因ではなく、全編通して演者に戯曲が馴染んだこと、演者同士の芝居の噛み合わせが変化したこと、その他様々な要素が関係していると思う。演者本人たちも言っていたようにかなり難しい戯曲だったのだろうと思うが、その難しい戯曲の中で公演を重ねるにつれて観る側(というか私)にも芝居の面白さが伝わるようになっていったということだろう。南座、更に言えば松竹座前半までは場面の美しさと抽象的概念を楽しむ作品だと思っていたが、松竹座後半には「これは役者の”芝居”を見る舞台だったのかもしれない」と思い直したし、そもそも役者の芝居を見るというのがどういうことなのか、ド素人ながらになんとなくわかった気になった。

本当のところは玉様に聞いてみないとわからないのだが、星降る夜に出掛けようは玉様が若手を育てようとして作った舞台のような気がしている。玉様は短い物語をいくつか使って舞台を作ろうとしていたらしく、最初は日本の話を探していたが、見つからなかったので星の王子さまとお月さまへようこその短編を使うことにしたとのことだった。選ばれた三遍はどれも基本的には役者が2人の会話劇で、大して劇的な展開もなく、物語は役者の会話と所作で構成されている。セットは ほぼ素舞台と言っていいくらいの最小限で、照明の効果は使われるが、基本的に役者は限りなく削ぎ落とされた状態で舞台上に晒される。大千穐楽後のことだが、「現代の若い俳優さんが詩的な芝居をどれだけできるかの実験だった」という玉様のインタビューが出ていた。

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また、短編とは別に主たる演者3人それぞれが一曲ずつパフォーマンスする場面があり、髙地さんはSaga of Jennyを歌っていた。これはミュージカルLady in the Darkの中の、主人公の女性編集者が夢の中で「優柔不断の罪」について問われた際に弁明する場面の曲である。自分で選曲する選択肢もある中で玉様にお任せしたら渡された曲らしい。私は歌についてはよくわからないが、曲として単純に難しく、歌い手の力がモロに出る曲だなと察することはできた。舞台での演出もミュージカル内のいちナンバーといった雰囲気で、アンサンブルメンバーも舞台上に立つと言えども、主たる演者の力がダイレクトに問われる作りになっていた。私の知る限り彼が普段歌うことのないジャンルの曲だし、普段とは違う歌い方が求められるし、これは玉様からの課題曲なのかもしれない、と思ったりもした。

更に、この舞台では演者本人たちがかなり自主的に動いていたようで、「玉三郎さんは役者に任せてくれる」という話を演者本人たちからよく聞いた。様々な要素をつなぎ合わせたような構成といい、簡素な舞台美術や衣装といい、観客側から見ても明らかな演者の主体性の強さといい、なんだか教材色の強い舞台だと思った。そもそも演者や演出家の発言から垣間見える企画自体の発端からしても、舞台演劇を志す若手を育てる舞台だったような気がする。そしてそういった舞台を見続けたオタクも、ついでに観劇能力を育てられてしまったような気がしている。舞台星降る夜に出掛けようで私が感じた大幅なアプローチの変化は2回で、その変化を経ても結局最後まで私好みの作品ではないことに変わりはなかったが、もはや私の好みなどどうでもいいのだ。舞台「星降る夜に出掛けよう」の南座公演と松竹座公演を通じた演者や作品の変化と私の変化、それをリアルタイムで私が体感したことには私にとって大きな意義がある。とても奇妙で貴重な体験だった。

 

髙地優吾のブログはやっぱり星降る夜に出掛けようの期間中も一切途切れたことはなく、南座初日の前日には京都へ上陸した報告があった。「SixTONESからの切り替え頑張る」というようなことも書かれていて、どうやら舞台は髙地さんにとってはSixTONESから切り替える場所らしい。どういったアイデンティティを持って舞台に立っているのか、まだ詳しく教えてくれたことはないし、別に教えてくれなくてもどっちでもいいのだが、少なくとも舞台上においての彼はグループにいるときの彼とはまた別の何かなのだな、と私は思うことにした。

余談だが、彼の出演する舞台を観に行くとき、私には「髙地優吾に会いに行く」という感覚が一切ない。舞台に立つ彼を見に行っている感覚はあるのだが、それは舞台役者としての彼を見に行っているのであって、会いに行っているわけではない。この「会いに行く」という表現自体アイドルを推している人間以外に通じるかどうか怪しくはあるが(私はアイドルに落ちるまで「会いに行く」の感覚がさっぱりわからなかった)、要するに私にとって「会いに行く」髙地優吾はSixTONESの髙地優吾であって、舞台上の彼は会いに行く人ではないのだ。かといって「作品自体を楽しみに行く」みたいなことでもない。仮に作品に興味がなくても面白くなくても楽しめなくても(楽しめるに越したことはないのだが)、彼が舞台に立つなら舞台上の彼を見るために劇場へ行く。別に彼の芝居が好きだからではない。好き嫌い以前に、彼の芝居が好きかどうか私が判断するにはまだ全く数が足りない。しかし舞台上の彼にかなり強い興味を持っているのは確かで、きっとこれは夏の夜の夢の第一声を聞いた瞬間に出会った彼への一目惚れだと思う。(一目惚れしたなら彼の芝居が好きだということでは?という話もあるが、一目惚れと芝居の好き嫌いは少し違う次元にある。)

舞台上の彼に対する私の認識をざっくばらんに言うなら「SixTONES髙地優吾のオタクをしていたら急に舞台の髙地優吾という別の存在のオタクもすることになってしまった」みたいなことではあるが、正確に言おうとするともう少し複雑で曖昧な表現にしなければならない。私はSixTONESの髙地優吾と舞台上の髙地優吾を曖昧な境界線によって区切った別の枠で見ている。これは「髙地優吾とこちゆご」みたいなことで、私の中で両者は完全に切り分けられた存在では決してないのだが、同じ人間というわけでもないのだ。彼にとって舞台がSixTONESから切り替える場所らしいと知ったとき、これはおそらく個人的な思い込みであろうが、なんだか答え合わせがされた気がした。SixTONESの髙地優吾とは違うところにいきなり現れた彼は、SixTONESからどこかへ切り替えた状態の髙地優吾だったのだ。

 

2023年の舞台中、もしくは終わってすぐの取材であろう年末の雑誌で、髙地さんは「2024年下半期には舞台に立っていたい」と言及しており、またもやひとつの舞台が終わったら間髪入れずに舞台への意欲を押し出してきた。夏の夜の夢が終わった後にも「これからどんどん舞台に出たい」と言っていたが、どうやら今のところ、引き続き舞台をライフワークにしていくつもりのようだ。また2024年前半には雑誌で「今までの2作が古いお話だったので等身大の役もやりたい」というようなことも言っていた。この界隈のタレントがここまで具体的な話をする場合、いつのことかはともかくとして、既に話が固まっている場合が多い気がする。2024年前半の私は、「今年か来年か、まあそんなに遠くないうちに、また舞台に立つんだろうなー」と思っていた。

まあ結論としては、それは2024年10月のことで、解禁は6月の半ばであった。

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なんか自担が初単独主演を張るらしい。星降る夜に出掛けようの主演はプリンシパルの3人だったが、そもそもプリンシパルとアンサンブルの区別くらいしかない作品である。つまり2024年、髙地優吾が初めて1人で座組の真ん中に立つらしい。

Come Blow Your Hornはニール・サイモンの劇作家としてのデビュー作で、ブロードウェイにてデビュー初っ端からヒットを飛ばしたストレートプレイのコメディである。「である」なんて言ったらもともと私が知っていたような雰囲気が出てしまうが、前述の通り演劇にはほとんど触れてこなかったオタクなので、もちろん情報解禁後に調べて得た情報だ。彼が舞台に出る度に、こうやって私の中に少しずつ新たな知識や世界が入ってきたり形成されたりしている。日本でも何度か上演されてきた演目だが、これまでの上演では登場人物のベーカー兄弟のうち兄のアランが主演であった。今回は髙地さんが演じることになる弟のバディが主演となっていて、舞台誌等々でのインタビューによると、これは演出家の先生の「弟を主役にしたらどうだろうか」という前々からの構想を形にしたものということだった。

この情報が解禁されてからの髙地さんはと言えば、前年とは少し様子が違ってなんだかやたらと楽しそうであった。前年も楽しそうではあったのだが、かなり苦しんでいる様子がブログ等に滲み出ていた。それが2024年の夏には、雑誌で「稽古終わりには疲れ切ってる」みたいなことを言いつつも、それも含めた稽古や芝居の面白さや演劇の楽しさ、舞台で得られる快感について語る姿が目立つようになった。(ちなみにこういうことを話すのはほぼ雑誌のインタビューのみであり、ブログでは毎日一つずつ絵を描いておよそ翌日に何を描いたか答え合わせする企画をしていたため、いつも通り彼の具体的な活動はブログからはほぼ見えなかった。たまに一行程度で「やべえ」など言っていたくらいである。)悶え苦しむ様子は見せないことにしたのか、自分のペースができてきたのか、作品の違いによるものなのか、なぜかなのか詳しくはわからないがとにかく生き生きとしていて、 稽古が楽しくてたまらないとでも言わんばかりの活気を放つようになったように思う(雑誌のインタビューは本人の語り口調をそのまま聞けるわけではないことを念頭に置く必要はある)。また、特に舞台誌でのインタビューにおいて、自分がどのように準備をする人なのか、どういうことを考えて演じているのかといったような具体的な話が明らかに増えた。ライターからの質問内容もそれに対する彼の受け答えも、これまでとは比較にならないくらい具体的かつ厚みのある文章としてこちら側へ供給されるようになったのだ。これは初の単独主演(一人で取材を受ける機会が多い)ということが大きいと思うのだが、 外部の舞台に出始めて3作品目、まだまだ経験が浅いながらも、そういった話がまとまってくるくらい彼の中に舞台演劇というものが蓄積してきているのかもしれない、とも思う。

 

ところで彼が外部の舞台に出始めてからというもの、次の作品が解禁されていない時期にも、特に長文インタビュー等において舞台に関する話題が出るようになった。舞台のどんなところが好きかと問われて、彼がよく答えるのは「一度出たら止められないヒリヒリ感」である。Come Blow Your Hornの時期にはそう答えたら「Mなんですか?」と言われたらしく、そうかも…などと少し納得している様子だった(その他の発言を見る限り、どちらかというと中毒とか言った方が良い気もする)。そして、そういった舞台というもの自体に対する彼のあれこれを尋ねるインタビューにおいては、「じゃあ映像作品に関してはどうなの?」という話が出てくることも当然ある。彼曰く、映像作品での芝居は苦手らしい。映像作品では撮影順が前後することも多いが、時系列に沿わない芝居だと感情の流れが上手くいかなかったり、本番前のテストでベストを出してしまったり、というようなことらしく、2023年に出た雑誌ではかなり強い苦手意識を露わにしていた。しかし2024年、少し前にはこうやって強い苦手意識を隠しもしなかった映像作品に対して、彼の態度が軟化したような気がしている。複数のインタビューで繰り返し言っていたというわけでもないのでたまたまのような気もするが(そもそも舞台プロモーション中に出てもいない映像作品の話をする機会はほとんどない)、苦手意識に「今は」という形容詞がついたり、それが解けたら、という仮定の話が一瞬出たりしたのだ。たったそれだけだが、何かが変化しているかもしれないという気配だけをこちら側から感じるには十分である。決して苦手意識が薄らいだわけではなさそうだが、舞台演劇に対する積極性を増していくのと同時に、それ以外の部分に関しても私からはまだ見えないところで何かが変わってきているのかもしれない。

 

2023年の京都と大阪、「星降る夜に出掛けよう」で最後に出演者が総出で歌った曲は安全地帯の「情熱」であった。現代の若い役者のための作品で、最後に歌われる歌詞は「夢ははじまったばかり」であり、歌う彼らの現在地を提示されているかのようだった。2024年には髙地さんの初単独主演舞台の情報が解禁され、彼は演劇に対する自分について生き生きと語る姿を見せているし、そしてこの先の舞台演劇における活動に意欲を示し続けている。私は舞台に立つ彼のオタクの一人として、これから見る舞台上の彼、そしてこの舞台を経た後、その先も変わっていくであろう彼の姿に立ち会うのを楽しみにしている。

 

 

 

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