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狂喜乱舞するブログ

解釈違い

ここで言う解釈違いとは、既存のコンテンツを使って作られた創作物に対する解釈違いのことを言う。わかりやすいところで言えば漫画作品の実写化とかそういうやつだ。

 

解釈違いになり得る物・事は多岐にわたる。物語の構成、キャラクターの描かれ方、世界観、キャスティング、更には「実写化/アニメ化/その他諸々自体がそもそも解釈違い」みたいなところまで、ありとあらゆる要素が解釈違いになり得る。

 

ここで重要なのは、「どれだけ面白くて完成度の高い作品でも、解釈違いは解釈違いのまま解消されない」ということである。解釈違いは作品の完成度とは直接の関係を持たない。

どれだけ面白くて巧みな展開が組まれていても解釈違いは解釈違い。どれだけ感動的で評価の高い作品でも解釈違いは解釈違い。どんなに美しい世界観、面白い世界観を描いても解釈違いは消えない。どれだけ優秀なハマり役の俳優が演じても解釈違いに変わりはない。

「情報解禁時点ではないわ〜と思ったけど役者の役作りと話の作り方が良くて結果的にはある程度解釈合ったわ〜」みたいなことはまああるだろうが、それは「蓋を開けてみないと本当に解釈違いかどうかはわからない」という話であって、蓋を開けても解釈違いならそれはもう解消されることはないだろう。(まあ解禁時点でこれは解釈違いだわ!とわかる作品が圧倒的に多く、それを裏切ってくれる作品を探す方が難しいのは事実だが…※個人の感想です)中には「別物として考えればいける」みたいな場合もあるが、そうなれるかどうかは個別の作品と個人の解釈に依存するし、「いける」というだけで解釈違いに変わりはない。

 

一方で、解釈違いとはあくまでも個人の解釈が作り手の解釈と食い違っているということなので、解釈違いは個人の中で解決されるべきだとは思う。私の解釈と作り手の解釈が合わなかっただけ、だったら見なければいい。私の中に入れなければ最初からなかったものと同じことになる。「解釈違いで見れない」ということは、私がそのコンテンツに対して持っている大切な「何か」が解釈違いによって侵されたということで、その「何か」を守るためには「見ない」が一番有効な手段だ。

ただしこの「見なければいい」にも例外はあって、例えば「大好きな漫画の実写化に大好きな推しが出るけどキャスティングがマジでめちゃくちゃ解釈違い」みたいな状況になると大変なことになる。どちらかに比重が偏っていればまだどちらかを捨てる余地もあるだろうが、どちらも捨てられないともう本当に大変なことになる。半身は熱湯半身は冷水に浸かったみたいな情緒になり、文句を言いつつ怒ったり喜んだりワケのわからない様子でドラマ・映画・その他諸々を見たことのあるオタクも多いのではないだろうか。「話上体格が大事なのに💢💢💢💢ぜんぜん違う💢💢💢💢💢💢💢」「そこは💢💢💢💢💢泣き叫ぶな💢💢💢💢💢💢声を押し殺して泣け💢💢💢💢💢💢💢💢💢」「今の顔💢💢💢💢💢💢💢💢おいしい💢💢💢💢💢💢💢💢💢」などとブチ切れてるのか推しの演技に沸いているのかよくわからない感じで見るなど、二次元と三次元どちらのオタクもしているとこういう状況は避けられないこともある。

この解釈違いは役者のスキルには一切関係なく起きる。どれだけ演技が上手くて真摯に役に向き合う役者でも、その役者を使う制作陣とオタクで解釈違いが起きることもあるし、役者自身の解釈とオタクの解釈が食い違うこともある。元ネタのオタクとしての人格は怒り狂いながら、役者のオタクとしての人格は喜び跳ね回るみたいな状態は誰が悪いということはない。ただただ一人のオタクが大変なことになるだけで、大変なことになったオタクは(誰かに多大な迷惑をかけない限り)何も悪くないし、周囲はそっとしておけばいい。

 

…というようなことを思っていたのだが、あるとき「解釈違いなんてどうでもよくなるくらいひどい実写作品」を目の当たりにして、この考え方にも注釈?例外?をつけておこうという気になった。

ずっと昔から好きだった作品が実写映画になったのだが、その情報解禁時点で「これはまずい(原作オタクとしては観ない方がいい)」と察しており、その後好きな役者の出演が解禁されて頭を抱えていた。まずメインビジュアルからして制作側との解釈違いの気配があり、その後発表されたメインキャストからも解釈違いを予感し、その予感を裏切ってくれそうな要素も見当たらない。その好きな役者も役者本人は好きだがキャスティング時点で「そこかあ〜〜〜…」と声が出た(解禁されたビジュアルも原作キャラクターとコンセプトがかけ離れていた)。ただ事前情報から察するに原作とは全くの別物であろうと予想は立てられたことと、試写会に行ったオタクの話を聞くと本当に全く違う話になっていたようなので、「まあ別物として見ればいけるかもしれん」と思って観に行った。

しかしその考えは裏切られたというか、裏切る以前の問題というか、あれほど長く感じた映画はそうそう観たことがない。まあ察していながら観に行った私が悪いのだが、話の展開も面白くなければキャラクターの魅力も出ていない。明らかに原作オタク向けの内容ではないのだが、原作を知らなければ何が起きているのかさっぱりわからないという、一見矛盾した状態が成立する稀有な映画だった。また、それだけならまだ役者のオタクとしての人格は喜べる可能性があるのだが(原作オタクとしての人格は既にダメになっている)、役者の魅力も全く伝わってこないレベルで潰されていたので役者のオタクとしての人格で見てもダメだった。映画館でなければたぶん30分も観られなかったし、安くなる日に観たからまだ後悔は小さかったが普通の日に観たら結構落ち込んだと思う(虚無で)。観終わったときには解釈違いなんてどうでもよくなっていたというか、解釈違い以前の問題というか、解釈違いを起こすにはまず作品がある程度しっかりしている必要があるという学びを得た。

(この作品がそもそも映画としてひどいと思ったのはあくまでも私の感想であるということも※でつけておきたいが、世間の評価や態度を見る限り私の酷評もどうやら世間一般から外れてはいないような気がする。)

 

だからと言って「解釈違いが起きるだけ作品の質が確保されててありがたい…」とはならないが、「世の中には解釈違いすら生まれ得ない状況もある」ということと、「解釈違いは個人の問題」というのは心に留めておきたい。解釈違いには他人が口出しできるものではないし、自分の解釈違いは他人に押し付けるべきではない。そしてこの考え方も私個人の話であって、私の外に出すときには「これは私の方針である」という注釈を明記しないまでも周りに漂わせておきたい。

 

これはその上で言いますが、あの原作から何をどうやったらできるのかわからん、解釈違いすら起きないレベルのあの映画は許さんからな…