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夏の夜の夢 予習ノート③(物語の構造と要素について)

推しがシェイクスピア作品に出るとの情報解禁にひっくり返ったオタクの予習ノート③です。①②はこちらから↓

夏の夜の夢 予習ノート①(シェイクスピアと夏の夜の夢 概要) - ショータイム

夏の夜の夢 予習ノート②(シェイクスピア作品について) - ショータイム

 

この記事の最後に読んだものをまとめています。①ではそれぞれについて簡単に紹介しています。

 

「頭に入れておいたら舞台がより楽しめそう!」と私が思ったことを書いた初心者のチラ裏メモです。私はにわかのド素人ですので、正確な情報・詳細な内容については専門家の書いた本にお願いしますね!

 

目次

 

物語の層構造について

・夏の夜の夢はニ軸の層構造を持ち、[5]ではこれが夢の構造と一致することが指摘されている。二軸はいずれも意識-無意識の軸である。

(1)ひとつは登場人物の層に沿った軸である。宮廷世界(テーセウスとヒポリュテ)が意識の表層に近く、次いで若者たち、職人と続き、最後に妖精の世界は意識の最も深いところにある無意識の世界である。意識の世界にいる人間たちは無意識の世界にいる妖精の存在を認識できない。

→若者たちは妖精パックとオーベロンのせいでてんやわんやするが、それが妖精の仕業とは認識できない。また、ロバ頭を被せられたボトムだけは妖精の世界に入っていくが、ロバ頭を外された後には妖精の世界にいたことを「ハチャメチャで前代未聞でbottom(底、根拠)なしのとんでもない夢」と言い、現実に起きたこととは思っていない。

→最も意識の表層に近いテーセウスとヒポリュテは夜の森に行くことはないし、妖精と直接関わり合いになることもない。中間にいる若者たちは妖精たちの棲家である夜の森に入っていき、妖精の存在を認識できないまま妖精(無意識)のせいで混乱に陥る。このとき、媚薬のせいでヘレナに惚れてしまったライサンダーは「男の気持ちは理性の支配を受ける、そして理性は君の方がいい女だと告げる」と言っている。このように、若者たちは自分の意思で動いていると思っているが、実は妖精たちの手で動かされている。(ただし妖精たちも全て自分たちの思い通りにできているわけではなく、パックはディミートリアスライサンダーを間違えるし、パックはライサンダーにハーミアを見せたかったのにライサンダーは迷い込んできたヘレナを見てしまった。)職人たちも夜の森に入り、基本的には妖精たちの存在を認識できないが、その中でボトムは妖精の世界に入っていってしまう(朝には全て夢だと思っている)。

(2)もうひとつは物語展開に沿った軸である。物語は宮廷世界で始まり、これは覚醒した意識の世界である。夜になると物語の舞台は無意識の世界である森の中に移動し、その後宮廷世界(意識の世界)へ戻るという、時間経過による場面変化で意識と無意識の層構造が作られている。

・夏の夜の夢はメタシアターである。貴族たちが職人たちの劇(劇中劇)を見ており、その外側から貴族の若者たちのゴタゴタを妖精たちが見て、それらを観客が見る、入れ子型の層構造がある。更に世界劇場の概念を考慮すれば、観客も(人生という)芝居をしているところを何者か(神とか天使とか妖精とか)に見られていることになり、観客とその外側も含めた、芝居の枠を超えた層構造が存在することになる[7]

→ この入れ子構造を考えると、パックの台詞「ばかげた芝居を見てみましょう、人間ってほんとばかですね!」はゴタゴタしている若者たちだけではなく、暗に芝居の外の人間(観客)にも向けられた言葉になる。(若者たちは職人たちの劇を見て、妖精たちに見られる存在であり、これは観客と立場が一致する。)この「人間ってほんとばか」は新プラトン主義的な意味の「ばか」である。この「人間」は原文では「mortals」であり、「死すべきもの、人間」という意味を持つ。パックは道化役(エリザベス朝あたりのイギリスに実在した、君主の愚かさを指摘する役目を持った人たち[1])であり、この場面でパックは登場人物および観客の(全ての人間が持つ)愚かさを指摘している。

 

物語の対構造について

夏の夜の夢には対となる構造が随所にあり、対の一方は宮廷世界や若者たち(意識の世界)、他方は妖精の世界(無意識の世界)にある。

・宮廷世界(意識の世界)のテーセウスとヒポリュテ、妖精の世界(無意識の世界)のオーベロンとティターニアは明らかに対の構造となっている。宮廷世界のテーセウスは妖精の世界のオーベロン、宮廷世界のヒポリュテは妖精の世界のティターニアに相当する。この二組はそれぞれ夫婦(および婚礼直前のカップル)であり、当然二人の関係性も一致している。また、オーベロンはヒポリュテ、ティターニアはテーセウスがお気に入りで、交差する形でも対構造がある[5]

※テーセウスとオーベロン、ヒポリュテとティターニアはそれぞれ一人二役で演じられることが多く、[5]では(話の構造から考えると)この二組は同一人物と考えてよいと言及されている。この一人二役の演出は、現代においては1970年に演出家ピーター・ブルックが始めたのをきっかけとして、後のほとんどの公演で採用されるようになった[5,10]

・[5]では夏の夜の夢が「女が嫌だと言ったことに対して男が何かすることで話が始まっている」と指摘されている。宮廷世界ではハーミアがディミートリアスとの結婚が嫌だと言ったことで、イジーアスやテーセウス、ライサンダーがそれぞれ行動を起こすところから話が始まる。一方妖精の世界では、ティターニアがインドの男の子をオーベロンに渡すことを拒否し、それに対してオーベロンが仕返しするところから話が始まっている。

・職人たちの芝居は「ピュモラスとティスベ」で、これはロミオとジュリエットと同じく、すれ違いと勘違いで2人が死ぬという悲劇である。一方、ライサンダーの近くで寝たはずのハーミアは、目覚めたらライサンダーがいなかったために、出会したディミートリアスに「あなたライサンダーを殺したんじゃないわよね!?」と疑いをかけていたり、ディミートリアスライサンダーが決闘しようとしたりしている。夏の夜の夢では実際に殺人や自害は起きないが、一歩間違えば職人たちの芝居と似たようなことが起きないとも限らない状況には陥っている。

(他にも対構造と言えば対構造か?みたいな箇所が結構ありそう)

 

森について

シェイクスピア喜劇において、アイデンティティを失う段階(攪乱過程)では登場人物が非日常の世界へ出向くことが多い[1]。夏の夜の夢ではそれが森であり、登場人物たちは森の中でアイデンティティを失ったり取り違えたりして大混乱に陥る。

・森は無意識の世界のメタファーである。これは夏の夜の夢に限った話ではなく、グリム童話など様々な物語に「無意識」「未知の領域」「非日常」といった概念として登場する[5,11]。夏の夜の夢の「森」には、森自体が無意識を象徴していることに加えて、人間には存在を認識できない(=無意識の世界の住人の)妖精たちが跋扈しており、「夜(昼よりも更に森の中が未知の世界になる)」で、極めつけに「狂気」を呼ぶ月の光(後述)が差し込んでいるという要素が揃っており、喜劇の撹乱過程には最適な舞台である。

・[5]で松岡和子さんが指摘されているように、シェイクスピアの知る「森」はイギリスの森である。日本の森は山であることが多いが、イギリスの森はおよそ平面的である。平面的な森は起伏のある森に比べて、奥がどうなっているのかがより不透明であり、どこに向かえば出られるのかがわかりづらく、より無意識の世界に近い。

 

月について

・かつてのヨーロッパ文化圏では月は狂気を引き起こすものであるとされ、狂気(lunatic)の語源にもなっている(月はラテン語でルナ)[5,8,12]。これは月の満ち欠けが頼りなく妖しいものとして捉えられたからであろうと言われている。また、太陽が意識的な世界、理性の象徴であるとされるのに対して、月は無意識の世界、狂気の象徴であるという概念がある[5]。特に、夏至前夜の月はミッドサマー・ムーンと呼ばれ、狂気を引き起こしやすい光を放つとされたらしい[8]

・夏の夜の夢の「夏の夜」は破天荒でハチャメチャな夜という意味であり、題名の通り人間が(無自覚に)狂っている様を描く夏の夜の夢において、月は狂気の象徴として劇全体を支配している。実際、全編を通して登場人物の台詞の端々に月に関するフレーズが差し込まれている。

(1)ハーミアが父に逆らい、選択肢として示されたひとつが「処女のまま尼となり月に祈り続ける」であるが、ここで仕える神がローマ神話の月の女神(処女神)ダイアナである[8]。ダイアナはギリシャ神話ではアルテミスにあたり、処女性と純潔の象徴である。

(2)ライサンダーがヘレナに駆け落ちの計画を打ち明ける際、台詞に「月の女神フィービーが…」と入るが、フィービーはダイアナの別名である。

(3)妖精の女王ティターニアの名前は、帝政ローマ時代の詩人オウィディウスがダイアナの別名として用いている。

(4)一夜が明け、テーセウスが五月祭の行事のひとつとして森へ狩りへやってくるが、月の女神ダイアナは狩猟の女神(アルテミス)でもある。

(5)職人たちの劇は月の光のもとで男女が悲劇に見舞われるという話であり、職人たちは当日に月が出るかどうか執拗に確認する。また、劇中には月に住む男(ただし月を手に持っている)というトチ狂った役が登場する。

(6)職人たちの芝居が終わり、貴族たちが寝室に消えた後、宮殿にやってきたパックの台詞に「And we fairies, that do run By the triple Hecate's team」とあるが、このHecateは冥界や月の女神である。

 

夢について

・森での混乱が明けて目覚めたボトムは、ロバ頭をつけられて妖精の世界にいた間のことを「奇妙な夢を見た、人間が説明できるような夢じゃない、目が聞いたこともない、耳が見たこともない、手が味わったこともない、舌が考えたこともない、心臓が喋ったこともない、前代未聞のbottom(底、根拠)なしのとんでもない夢」と言う。創作物に出てくる夢は筋の通った夢であることも多いが、実際人間が寝ている間に見る夢(夢に限らず現実世界も)はこれと同様に奇妙でハチャメチャで、よくわからないものが出てくるしよくわからないことが起きるし辻褄は合っていることの方が珍しい[5]

・森にいる間に人間が経験した出来事はおよそ妖精たちの仕業で、人間に認識できないもの(=無意識)が引き起こしたという点で、登場人物が見た夢であると言える。先述の通り、「夏の夜の夢」の「夏の夜」は人々がハチャメチャに羽目を外す破天荒な夏至前夜であり、「夏の夜の夢」はそういったハチャメチャな夢を描いた喜劇である。さらに、パックの口上には「もしこの物語が気に入らなかったら、皆様(観客)がここでご覧になったのは夢だと思ってください」という趣旨の台詞があり、すなわちこの芝居自体が観客の見た(ハチャメチャな)夢として位置づけられている。

※また、妖精たちも全て自分の意図通りに動けているわけではなく、パックは人を間違えるし、ティターニアはオーベロンの手によってロバ頭のボトムに惚れさせられてしまっている(ティターニアも媚薬によってハチャメチャな夢を見させられている)。

 

原題と物語の季節について

・夏の夜の夢の原題は「A Midsummer Night's Dream」で、直訳すれば「夏至祭前夜の夢」である。夏至祭はキリスト教の聖ヨハネ祭のことで、6/24に祝われる。「真夏の夜の夢」と訳されることもあるが、6/24付近のイギリスは真夏とは言えない程度の暑さなので、単に「夏の夜の夢」と訳されることもある[3,7,8]

夏至祭前夜には焚き火を囲んで酒を飲んだり踊り狂ったりなど、羽目を外して大騒ぎをする風習があったらしく[3,6,7,8]、おそらく夏の夜の夢というタイトルはこういった「ハチャメチャでしっちゃかめっちゃかで破天荒な夜に見る夢」を表したものである。また、夏至祭前夜は精霊が跋扈する夜であり、この夜集めた薬草には不思議な効能があると言い伝えられている[3,7,8]

・ただしこの話が夏至祭前夜に起きたものかと言うとそうではない。夜が明けて森へ狩りにやってきたテーセウスの「五月祭の儀式が済んだ」という台詞と、寝ている若者たちを見つけて言う「五月祭を祝うために早起きしたのだろう」という台詞から、この話は五月祭前後(4/30~5/1あたり)の話であることが明らかである。

・五月祭前後の時期の話を「夏の夜の夢」と呼ぶことについては様々な解釈の仕方がある。[7,8]では、「この話は五月祭でもあり夏至祭でもある、お祝い気分いっぱいの陽気で破天荒な話」、あるいは「人間の世界では五月祭だが、それと表裏一体である妖精の世界では夏至祭が祝われている/妖精の世界はいつでも夏至祭である(実際、ティターニアはオーベロンと「この夏の初め以来」ずっと喧嘩をしていると言ったり、自身を『いつでも夏がかしずいている』妖精であると言ったりしている)」といった解釈の方向が示されている。

 

登場人物の名前について

・テーセウスはギリシャ神話に出てくる英雄の名前であり、夏の夜の夢のテーセウスは神話のテーセウス本人として描かれている。夏の夜の夢の舞台設定はギリシャアテネであり、夏の夜の夢のテーセウスは神話と同様にアテネの支配者である(ただしギリシャ神話ではテーセウスはアテネ王だが、夏の夜の夢では公爵に変更されている)。また、ギリシャ神話にはアテネ王となったテーセウスがアマゾンに侵攻し、アマゾンの女王と結婚する話がある[13](ヒポリュテという名前はチョーサーの「カンタベリー物語」でアマゾン女王の名前として出てくる[7,8])。

・オーベロンとティターニアの言い合いの中で、オーベロンはティターニアに対して「お前テーセウスを惑わせてペリグーネーを捨てさせたりイーグリーズとの誓いを破らせたりアリアドネーとかアンティオペーとの仲を裂いただろ」と罵るが、ここで出てくる名前の女性はテーセウスと関係のある女性で、プルタルコス「英雄伝」にも登場する[7,8,13,14]

・余興を選ぶ際、テーセウスは「ケンタウロスとの戦い」という候補を見て「私のいとこのヘラクレスを讃える物語だ」と言うが、プルタルコス「英雄伝」によれば、ヘラクレスはテーセウスのいとこである[7]

・妖精パックは劇中で「ゴブリン」「ロビン」とも呼ばれ、パック自身も自分のことを「パック」「ロビン」「ゴブリン」と言う。パックは固有名詞ではなく、「いたずら妖精」という意味の一般名詞であり、ロビン・グッドフェローという妖精(小鬼)のことである[7,8]現代日本においてのイメージで言えば、妖精というよりは妖怪に近く、人々にいたずらをしたり、夜に家事をしてくれたりする。貴族たちが寝室へ消えた後にやってくるパックは、おいら箒を持って先触れで来たよ~みたいなことを言うが、パックの仕事のひとつは箒で床を掃くことである。

・職人たちの劇「ピュモラスとティスベ」はロミオとジュリエットと似た構造の芝居だが、このもととなった話はオウィディウス「変身譚」などに登場している[8]

 

その他覚書

・主にテーセウスのセリフの中で、明らかに当時の治世者エリザベス一世の存在を意識したであろう箇所が複数ある。オーベロンの言う「西の国の美しい処女王」は、生涯独身であったエリザベス一世のことであると言われている(物語の舞台はアテネであるのでイギリスは西の国)[7,8]

・オーベロンが使う媚薬は花の汁だが、この花は原文で「love-in-idleness」であり、これは三色菫(パンジー)の原種のことである。idlenessは「だらだらしている」という意味。

・ボトムが「何色のひげをつけよう、麦藁色か、ミカン色か、真っ赤か、フランス金貨の真っ黄色か」と言うのに対して、クウィンスは「フランス病になったら髪が抜けるから髭なしでやったらどうだ」と返す。このフランス病とは梅毒のことである。

・第一幕冒頭で、テーセウスは「結婚式まであと四日だ」と言うが、その次の日の夜にライサンダーとハーミアがかけおちし、その夜が明けるころにオーベロンが「明日はテーセウス公爵の婚礼だ」と言うので、本当は四日も経っていない。

 

映画版 夏の夜の夢

夏の夜の夢は何本か映画も出ていますが、そのうち2本がU-NEXTにあったので観ました。

(1) 1999年公開、アメリカで制作されたもの。監督はマイケル・ホフマン。全体的にビジュアルや演出がロマンチック。貴族たちのいでたちがいかにも西洋の上流階級という感じ(私のイメージ的に)。ディミートリアスとヘレナは森の中を自転車で追いかけっこする。この映画内での時代設定は「新発明の自転車が大流行している」くらい。妖精たちの陽気さや神出鬼没さがよく演出されている。物語展開や台詞の内容は今現在テキストになっている夏の夜の夢とだいたい同じ。

(2) 2016年公開、シェイクスピア没後400年記念作品としてイギリスで制作されたもの。人間側も妖精側も人種が入り混じっている。現代のファンタジー映画感強め。若者たちが軍人の家系っぽいし、おそらく軍人が中心的な存在の国家が舞台だと思う。壁に埋め込まれたタッチパネルとかが出てくる。妖精たちが異様に好戦的で戦闘能力が高く、オーベロンがいきなり雷を落としたりする。テーセウスとヒポリュテがぜんぜんイチャイチャしない。今現在テキストになっている夏の夜の夢とは物語展開や台詞の内容が結構違う(だいたいの流れは同じ)。

[5,8,10]では松岡和子さんが現代における夏の夜の夢の演出に触れられていますが、U-NEXTにある映画2本だけでもこれだけ違うし、上演された舞台の演出も本当に様々なようなので、つまり何でもアリな作品なんだなと思いました。

 

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以上、私が初見(初読)で「?」になったところを中心に予習しまとめました。もっと書くべき内容とか意味が違ってしまっている表現とかちょっと違うんだよなみたいなこととか、正直たくさんあると思うんですが、これ以上詰めると年単位の勉強が必要になりそうなので一旦これで終わりにします(ちょこちょこ加筆修正するかも)。お読みの皆様におかれましては、ブログ内容は薄目で話半分に読んでいただくようにお願いします。もし「ここは違うぞ」とかのご指摘があれば送っていただければ幸いです。

 

読んだもの

(①にリンクと簡単な紹介をのせています)

[1] 中公新書 シェイクスピア 河合祥一郎 著(2016)

[2] 三省堂 シェイクスピア・ハンドブック 河合祥一郎小林章夫 著(2010)

[3] 祥伝社新書 あらすじで読むシェイクスピア全作品 河合祥一郎 著(2013)

[4] 三省堂 シェイクスピア大図鑑 スタンリー・ウェルズほか 著 河合祥一郎 監訳(2016)

[5] 新潮文庫 決定版 快読シェイクスピア 河合隼雄 著、松岡和子 著(2018)

[6] 白水社 夏の夜の夢 ウィリアム・シェイクスピア 著 小田島雄志 訳(1983)

[7] 角川文庫 新訳 夏の夜の夢 シェイクスピア 著 河合祥一郎 訳(2013)

[8] ちくま文庫 シェイクスピア全集 4 夏の夜の夢・間違いの喜劇 シェイクスピア 著 松岡和子 訳(1997) 

[9] 白水社 ハムレットは太っていた! 河合祥一郎 著(2001)

[10] ちくま文庫 すべての季節のシェイクスピア 松岡和子 著(2022)

[11] 駿河台大学論叢 = Surugadai University studies / 『駿河台大学論叢』編集委員会 編 『グリム童話』にみる個性化--「白雪姫」と「ふたりの旅人」 太田隆士(2008)

[12] 研究社 新和英中辞典 第7版(2003)

[13] 角川文庫 完訳 ギリシアローマ神話 上 トマス・ブルフィンチ 著 大久保博 訳(2004)

[14] 新潮文庫 ギリシア神話を知っていますか 阿刀田高1984

夏の夜の夢 予習ノート②(シェイクスピア作品について)

www.shochiku.co.jp

 

推しがシェイクスピア作品に出演するとの情報解禁にひっくり返ったオタクの予習ノート②です。①はこちら↓

夏の夜の夢 予習ノート①(シェイクスピアと夏の夜の夢 概要) - ショータイム

 

この記事の最後に読んだものをまとめています。①ではそれぞれについて簡単に紹介しています。

 

「頭に入れておいたら舞台がより楽しめそう!」と私が思ったことを書いた初心者の付け焼き刃ブログ(チラシの裏のメモ)です。私はにわかのド素人ですので、正確な情報・詳細な内容については専門家の書いた本にお願いしますね!

 

目次

 

シェイクスピアの悲劇と喜劇

シェイクスピアの作品は全40作品のうち、喜劇は10~17作品である(分類の仕方によって変動する)[1,3,5]

シェイクスピアの時代は(現代に比べて)作者が誰かということに対する興味が薄く、著作権という概念もなく、劇作家としてのシェイクスピアの名前も無名であっただろう時期の記録は残っていない[1]。また、複数人が同じ脚本を共同制作することも多かった。シェイクスピア作品は全37作品と言われていたが、研究が進んで合作含めて40作品という定説ができた[1,3,5]

ギリシャ悲劇ではヒューブリスが悲劇の一因とされており、[1]ではシェイクスピア悲劇もそれに従っていると指摘されている。ヒューブリス(hubris)はギリシャ語で「(神に対する)傲慢、過度な自信」を表す神話由来の言葉である。シェイクスピアの四大悲劇の主人公(および他の登場人物)たちは、神の仕事とされている復讐を自分の手でしようとしたり、神に成り代わって何者かに制裁を加えようとしたり、といった神に対する無礼をはたらいている(キリスト教では復讐を神の仕事と考える)。[1]では同時に、シェイクスピア悲劇では正しい価値観はひとつであり、主人公が自身の持つ価値観に従って何かしらを否定するが、その否定によって悲劇が生まれているとも指摘されている。

シェイクスピア悲劇の中でも例外的にロミオとジュリエットにはヒューブリスがなく、喜劇的要素と悲劇的要素の両方を用いた構成になっている。

・一方シェイクスピア喜劇では、いろいろな人がいろいろなことを言うが、その全てが肯定される[1,3]。夏の夜の夢でも、登場人物それぞれが好き勝手なことをいろいろ言うが、その全てが肯定される。誰かが誰かに対して罵ったり否定したりすることはあってもそこにヒューブリスはなく、それによって悲劇は起きないし、その罵りや否定も含めて、物語自体がそれを否定することはない。全てを正しいとするということではなく、そもそも「正しい」「正しくない」の区別がない。

シェイクスピア学者ノースロップ・フライによれば、シェイクスピアの喜劇は三段階の構成になっている[1,3]

①始まり:登場人物の心に暗い影が差している

→夏の夜の夢ではハーミアが父に結婚を反対されていたり、ヘレナがディミートリアスに嫌われていたり、オーベロンとティターニアが喧嘩していたりする。

②撹乱過程:アイデンティティの混乱が起きる(アイデンティティが失われたり取り違えられたりして自分がどうなっているのかわけがわからなくなる)

→夏の夜の夢では森の中で若者たちがアイデンティティを失い相手を取り違えて混乱に陥る。また、ティターニアはロバ頭を持つ人間という化け物にぞっこんになってしまう。

③大団円:混乱が収まり、登場人物はアイデンティティを取り戻したり新しいアイデンティティを得たりする

→夏の夜の夢ではライサンダーとハーミアは無事に結婚し、ディミートリアスはヘレナへの愛を手に入れて結婚する。

・攪乱過程においては登場人物たちは日常世界と異なる場所に行くことが多く、夏の夜の夢の「森」はその典型的な例である[1]

・多くの喜劇の大団円では登場人物の誰かしらが結婚する。これは当時が人間は結婚して一人前であると考える時代であったためである。この時代には夫婦は一心同体であり[1,3]、結婚相手はもう一人の自分(ベター・ハーフ)であるとみなされていた。すなわち結婚は「新しいアイデンティティを得る」ことであるので、喜劇の大団円として最適な展開と言える。

 

シェイクスピア作品を支える思想

シェイクスピアはエリザベス朝の時代に生きた人なので、当然のことではあるが、シェイクスピア作品は当時の時代思想の上で作られている。

 

ルネサンス人文主義

シェイクスピアが生きた時代のイギリスはルネサンス真っ只中で、シェイクスピア作品もその影響を大いに受けている。ルネサンスはフランス語で「再生」「復活」を意味する言葉で、ヨーロッパにおけるルネサンスはそれまでの封建社会や神中心の世界観から人間を解放しようという運動である。

ルネサンス以前は、神を絶対的存在とし、人間を罪深いものとする価値観が社会を支配していた。ルネサンスでは社会をその価値観から解放することを目的とし、人間的な美を求める古代ローマギリシャ文化が思想の規範とされた。ルネサンスにおける学問では、ローマやギリシャの古典文化を復興(ルネサンス)させて人々の生き方に役立てようとした。実際、夏の夜の夢にもローマ・ギリシャ神話のエピソードから発想を得た要素が多く用いられている。

ルネサンスの根幹をなす思想はヒューマニズム人文主義)で、これは「人間は絶対に何かしらの間違いをする愚かな存在であるので、己の愚かさを自覚して、より良く生きるためにはどうすれば良いか考えよう」という思想である。

シェイクスピアの描く人間像もヒューマニズムによく基づいており、やらなきゃいいことをやってしまう、好きな人に嫌いと言ってしまう、などといった矛盾した人間像を描き出している[1]。夏の夜の夢でも、ヘレナはよせばいいのにディミートリアスに駆け落ちのことを話してしまう。また、シェイクスピアは矛盾した言葉を重ねる表現(オクシモロン)を多用する。夏の夜の夢では「熱い氷、黒い雪」「音楽的な騒音(不協和音)」という表現が出てきたり、職人たちの芝居が「若きピュモラスとその恋人ティスベの冗漫にして簡潔な一場。とても悲劇的なお笑い(河合祥一郎訳)」という題名だったりする。これらの矛盾を物語自体が否定することはない。矛盾を受け入れるという発想は、ルネサンスにおけるヒューマニズムを支えた新プラトン主義の考え方である。

・多くのシェイクスピア劇には人間の愚かさを指摘する道化役が存在する(夏の夜の夢ではパック)。道化は人間の愚かさを自覚する必要性を説くヒューマニズムに基づく存在である。実際に当時は君主お抱えの宮廷道化師と呼ばれる人たちがいて、君主に対して軽口を叩きながら誤りを指摘する役割を担っていた[1]

 

シェイクスピア作品の認識論

シェイクスピアが生きたエリザベス朝では、プラトンアリストテレスの哲学が社会に根ざしていた[1]。特にアリストテレス哲学では、人が何かを知覚すると想像力(イマジネーション)がその情報を受け取って心象(ファンタズマ)を形成し、人間はその心象を真実として認識するとされている。

・夏の夜の夢には、シェイクスピアがこの(心象を形成するための知覚機能としての)想像力を重要視していたことが窺える場面が複数ある。

例1:ハーミアがイジーアスにテーセウスのもとへ連れてこられたとき、「父が私の目で見てくれたらいいのですが」と言うが、これは「父が私と同じ心象を見てくれればライサンダーとの結婚を許してくれるだろう」という意味だと考えられる。(ハーミアはその後テーセウスに「おまえが父の目で見るべきだ」と嗜められている。)

例2:ハーミアとライサンダーから駆け落ちのことを聞いたヘレナは、ディミートリアスのことを考えながら「惚れた目で見るとたとえ卑しくて下劣であっても立派で堂々したものに見える」「恋は目で見ず心で見る」と言う。

例3:若者たちの話を聞いたテーセウスは、「狂人、恋人、詩人はみんな想像力の塊だ」「恋する者はどんな醜い者でも美しく見えてしまう」「詩人は見たこともないもの、実体のないものを想像してそれに形や名前を与える」「想像力にはそんな不思議な力がある」といったようなことを喋る。この場面でテーセウスは若者たちの話を「あんなのは本当だとは思えない」とした上で、「狂人や恋人、詩人の持つような強い想像力にはあるはずのないものをあることにしてしまう力がある」というようなことを言っている。

※ただしこれに関してはすべて実際に起きたことであるし、裏側では妖精たちがてんやわんやして若者たちを動かしているので、「あるはずのないもの」ではないし、人間には認識できないが全て筋の通った出来事である。この後ヒポリュテは「しっかり筋の通った現実であるような気がしますが」と言っている。

 

世界劇場

シェイクスピア作品に限らず、エリザベス朝の演劇は当時の時代思想、すなわちルネサンスの新プラトン主義をよく反映している。新プラトン主義では、人間とそれを取り巻く大きな世界が呼応するものとされる。その思想から世界劇場(人生劇場)という概念が演劇に浸透した[1]。世界劇場は「この世界はひとつの大きな劇場で、人々はその中で自分という役を演じている・人生は役を演じる芝居のようなもの」という考え方である。

・世界劇場という概念を前提とした構造を持つ劇がメタシアターである。メタシアターは「演劇についての演劇」という意味で、登場人物が自身の演じている意識を示したり劇中劇が組み込まれたりすることで、「観客が虚構の世界を描いた芝居を見ている」という劇構造を取り払った劇のことを言う。

※例えばハムレットの最終場で、ハムレットが死にかけているのを見ている宮廷人に「君たち、青白い顔をして、この出来事に震えているのは、まるでこの芝居のだんまり役か観客だな」とハムレットが言う(河合祥一郎訳)。この台詞によってハムレットが世界劇場で役を演じている一人の人間であることが示され、ハムレットの実在する一つの世界が成立したかのような効果を生む[1]

・夏の夜の夢は典型的なメタシアターで、劇中劇構造を持っている[1, 7, 8]。すなわち、職人たちの劇を貴族たちは笑って観ているが、観客はそれを外側から観ている。さらに、世界劇場という概念を考慮すれば、観客も何者か(神とか天使とか妖精とか)に外側から観られている。また、森の中で若者たちがしっちゃかめっちゃかになっている間にパックが言う「ばかげた芝居を見てみましょう」も、若者たち(人間)の人生を妖精が外から見ているという世界劇場の概念を反映している。この構造によって、「夏の夜の夢を観客(我々)が外から見ている」という枠がなくなり、観客の外の世界まで劇世界が広がる効果が生まれる。

 

韻律(リズム)と押韻(ライム)について

シェイクスピアの時代において劇作家という概念はなく、劇は詩人が書くものであったため、シェイクスピア作品は基本的に韻文で書かれている[1,2,3,7]。韻文とは詩の言葉であり、対する日常の言葉は散文である。シェイクスピアは優れた詩人で、仮に一切芝居を書かなかったとしても詩人として後世に名を残したであろうと言われている[1]

・韻文とは毎行一定の韻律(リズム)が繰り返される文で、シェイクスピアは弱強五歩格(弱強のリズムが5回繰り返される)を多用した[1,2,3]。弱強は英語において自然なリズム、五歩格は舞台上のセリフとして最も適切な長さである。六歩格だとセリフとしては長く、四歩格だと歌うようなリズムになる[2](夏の夜の夢ではファンタジー色の強い場面で四歩格がよく用いられている[7])。

シェイクスピアの時代では詩の形式としては押韻(脚韻、行末で韻を踏む)が普通で、シェイクスピア作品でも初期作品には押韻が多用されている。後期の作品では韻律を守りつつも押韻を使わない手法(無韻詩)が主となった[2]

シェイクスピア作品は基本的に韻文で書かれているが、展開によって韻律が変わったり、散文になったり、無韻詩になったりきちんと押韻がついたりする。このような変化によって、登場人物の心境を表現したり、登場人物の立場や場面の区別を明確にしたりといった効果を生んでいる。

例1:第一幕で貴族たちは韻文で喋るが、その後すぐの場面で芝居の打ち合わせをする職人たちの会話はすべて散文である。韻文と散文で宮廷世界と庶民世界の区別がなされている。

例2:第三幕で職人たちが芝居の稽古をする場面では、職人たちの会話は散文、職人たちが稽古している芝居の台詞は韻文である。また、同じ場面でも妖精は韻文で喋る。散文と韻文を分けることで「現実世界」と「ファンタジー世界」を区別している。また、ロバ頭になったボトムにティターニアは韻文で話しかけるが、それに対してボトムは散文で返している。

例3:第二幕冒頭では、ティターニア付きの妖精が弱弱強二歩格、強弱四歩格、弱強四歩格という歌うようなリズムで喋る。次にパックと妖精の会話的な部分になると弱強五歩格(英語のセリフとしてより自然なリズム)となる。その後のオーベロンとティターニアの会話では更に無韻詩となり、パックと妖精の音楽的台詞との区別がされている。

例4:ヘレナがハーミアにからかわれていると勘違いし罵る場面では、ヘレナの台詞が途中から無韻詩となり、形式的な台詞回しではなくなることで「感情のままにまくしたてる」ような効果が生まれる。

例5:職人たちの芝居は韻文だが、それにガヤを入れる貴族たちは散文で喋っている。(貴族たちは職人たちの芝居を芝居の「外」から冷静に見ている、という立ち位置が散文によって表現されている?)

 

シェイクスピアの時代の演劇

劇場について

シェイクスピアが生きた時代はイギリスの歴史で言えば清教徒革命前である。この時代の演劇は近代演劇とは全く異なっており、近代演劇(現代のいわゆる演劇に近い)というよりも、狂言などの日本の古典芸能に様式が似ている[1]

シェイクスピアが生きた時代、イギリスの劇場には緞帳がなかった。イギリスで緞帳のある舞台が生まれたのは、シェイクスピアの死後に清教徒革命に伴って劇場が閉鎖された後、演劇が再開されたおよそ1660年頃の王政復古期と考えられている[1](この時代の演劇は近代演劇であり、現代のいわゆる演劇に近い)。シェイクスピアが生きていた時代の舞台は平土間の客席へ張り出す形をしており、土間の観客は舞台を取り囲んで芝居を見ることになる。これは狂言などの舞台と同じ作りである。土間には屋根がなく、椅子もないため観客は立ちっぱなしで舞台を見る。更に舞台を取り囲むように3階建ての観客席(椅子あり)が建てられており、追加料金を払えばこちらで座って観ることができた。

シェイクスピアの時代の演劇には大掛かりな装置や照明がなく、場面転換で装置を入れ替える必要がなかったため、緞帳や暗転を使う必要もなかった。更に言えばいわゆる場面転換もなく、役者は何もない空間(何かあっても人間の手でサッと出したり引っ込めたりできる程度のもの)で演じていた。

・いわゆる場面転換がなく、大きな舞台装置も存在しないため、役者の台詞やふるまいによって場所や時を自由に指定できる[1,2]。すなわち、登場人物が「森にやってきたぞ」と言えばそこは森だし、「夜が明けてきた」と言えば劇中では夜が明けようとしている。舞台上の登場人物が直前までどこにいようと、直前に日が沈んだばかりであろうと関係なく、登場人物がそう言ったらそうなる。

シェイクスピア作品の原文には場面設定がなく、更に言えば幕場割もない。[7]には幕場割(第何幕第何場)の記載があるが、これは1623年出版のフォーリオ版に書かれている幕割である。[7]は1600年出版のクォート版を主たる原典としているが、こちらには幕割の指定はないと注釈で言及されている。また、どちらにも場所の指定はない。

 

役者について

シェイクスピアの時代では現代のように同じ演目を連続で何日も上演するということはなかった。同じ劇場で毎日違う演目を上演し、1週間のうちに同じ演目が2回上演されることはほぼなかったであろうと言われている[9]。すなわち、役者は短い準備期間で新しい脚本を覚え、毎日違う演目で違う人間になっていたことになる(=ある期間にある特定の役に特化した役作りはできない)。更に、当時の演劇は劇団制で、ほとんど固定されたメンバーで構成された劇団が上演を行なっていた[5,9]シェイクスピアは座付き作家であったので、当然自分の劇団にいる役者が演じることを前提に脚本を書いたであろうと推察できる。すなわち、特定の役者の存在を前提として、役者個人の個性(見た目や芝居の特色など)を考慮し、短い準備期間でも最大限魅力を発揮できるように脚本を作ったと考えられる(ざっくり言えば当て書き)。実際、シェイクスピア作品では登場人物の外見について台詞中で言及されることが多い[9]

シェイクスピアの時代の演劇には女性の役者がおらず、女役は変声期前の少年俳優が担当していた[1,5,9]変声期前、すなわち成長期の男の子たちであるので、当然身長や顔立ちなどのばらつきが大きいと考えられる。[9]では、以下に挙げるような理由から、夏の夜の夢のヘレナは経験のある年長の子で、ハーミアはより年少の子だったのではないかと言及されている。

(1)ヘレナとハーミアの外見の特徴として明らかな身長差が台詞内で明言されている。ヘレナはハーミアより明らかに背が高い。

(2)ヘレナの台詞はハーミアよりも圧倒的に多く、より(年長の)経験豊富な少年に台詞が多い役を任せたと考えられる。

(3)ヘレナは「厚化粧ののっぽ(メイポール)」と言われている。これは、見た目が成人男性に近づいてきた少年がヘレナを演じており、女装のために化粧をしていて、おしろいなどを顔に塗っているためではないかと思われる。一方、ハーミアは「黒い韃靼人!」と言われるが、これは実際に肌の色が黒いわけではなく、単に「おしろいなどを塗っていない(=女装する必要もないくらい成人男性とは見た目のかけ離れた幼い少年)」ために、ヘレナと比べたら黒いということではないかと考えられる。

ライサンダーはハーミアをエチオピア女!黒い韃靼人!と罵るが、これは当時の定番の罵り言葉だったのではないかと言われている。[9]では、シェイクスピアの他作品や同年代の他作者の作品にも似たような罵り言葉が出てくることも言及されている。

また、ヘレナとハーミアのような2人の女の子の組み合わせ(長身と小柄の組み合わせ、長身の役の方が台詞量が多く、小柄の方は色黒と言われる)はシェイクスピアの他作品にもよく見られると言及されている。

・劇をやることになった職人たちのひとりフランシス・フルートは、ヒロインのティスベをやれと言われた際、「女役はやだ!髭が生えかけてるんだ!」と言うが、この台詞からも当時の劇団では第二次性徴前の少年が女役をしていたことがわかる。(職人たちが寄り集まってできた劇団では第二次性徴前の役者が用意できず、もう髭も生えてきているような青年が女役をしなければならないということであり、すなわち職人集団の素人ぶりが強調されている?)

 

読んだもの

(①にリンクと簡単な紹介をのせています)

[1] 中公新書 シェイクスピア 河合祥一郎 著(2016)

[2] 三省堂 シェイクスピア・ハンドブック 河合祥一郎小林章夫 著(2010)

[3] 祥伝社新書 あらすじで読むシェイクスピア全作品 河合祥一郎 著(2013)

[4] 三省堂 シェイクスピア大図鑑 スタンリー・ウェルズほか 著 河合祥一郎 監訳(2016)

[5] 新潮文庫 決定版 快読シェイクスピア 河合隼雄 著、松岡和子 著(2018)

[6] 白水社 夏の夜の夢 ウィリアム・シェイクスピア 著 小田島雄志 訳(1983)

[7] 角川文庫 新訳 夏の夜の夢 シェイクスピア 著 河合祥一郎 訳(2013)

[8] ちくま文庫 シェイクスピア全集 4 夏の夜の夢・間違いの喜劇 シェイクスピア 著 松岡和子 訳(1997) 

[9] 白水社 ハムレットは太っていた! 河合祥一郎 著(2001)

[10] ちくま文庫 すべての季節のシェイクスピア 松岡和子 著(2022)

[11] 駿河台大学論叢 = Surugadai University studies / 『駿河台大学論叢』編集委員会 編 『グリム童話』にみる個性化--「白雪姫」と「ふたりの旅人」 太田隆士(2008)

[12] 研究社 新和英中辞典 第7版(2003)

[13] 角川文庫 完訳 ギリシアローマ神話 上 トマス・ブルフィンチ 著 大久保博 訳(2004)

[14] 新潮文庫 ギリシア神話を知っていますか 阿刀田高1984

 

喜劇の「いろいろな人がいろいろなことを言う」、多神教的な世界観だな~と思いました ギリシャ神話とか日本の神話とかなんかそんな感じですよね 全く詳しくないのでほぼイメージですが

とりあえず本記事は以上です。③に続きます。

夏の夜の夢 予習ノート③(物語の構造と要素について) - ショータイム

夏の夜の夢 予習ノート①(シェイクスピアと夏の夜の夢 概要)

www.shochiku.co.jp

 

推しがシェイクスピア作品に出るとの情報が解禁されてひっくり返ったのですが、シェイクスピアという名前は知っていてもロミオとジュリエットを映画で一度見た程度の知識しかなかったので、軽く勉強してから臨もうという気持ちで予習ノートを作成しました。

 

目次

 

読んだもの

ド素人なのでド素人が手軽に読めるものを選んで読みました。今回は2022年日生劇場の夏の夜の夢の予習なので、訳担当の河合祥一郎先生の著書が中心です。頭に振った番号がそのまま文中の文献番号になっています。

 

[1] 中公新書 シェイクスピア 河合祥一郎 著(2016)

www.chuko.co.jp

河合先生がシェイクスピアの人生と当時の社会情勢、シェイクスピア作品の特色などなどについてまとめたシェイクスピア入門的な本。そんなに厚くない新書なのになんかボリュームがすごい。

 

[2] 三省堂 シェイクスピア・ハンドブック 河合祥一郎小林章夫 著(2010)

www.sanseido-publ.co.jp

図書館で読んだ。かなり情報量が多いが読みやすい。とっつきやすさと情報量で言えばこれが一番かもしれないけど手元にないのでもう記憶がおぼろげ。

 

[3] 祥伝社新書 あらすじで読むシェイクスピア全作品 河合祥一郎 著(2013)

www.amazon.co.jp

河合先生がシェイクスピア全作品(出版時点でシェイクスピア作品とみなされている作品全部)のあらすじとポイントについてまとめた本。一度シェイクスピア作品を読んだ後に索引的に使うように推奨されている。情報がすごくコンパクトにまとまっている。

 

[4] 三省堂 シェイクスピア大図鑑 スタンリー・ウェルズほか 著 河合祥一郎 監訳(2016)

dictionary.sanseido-publ.co.jp

図書館で読んだ。でかくて装丁がかわいい。百科事典的なつくりになっている。書斎が持てるような金持ちになったら蔵書にほしい。

 

[5] 新潮文庫 決定版 快読シェイクスピア 河合隼雄 著、松岡和子 著(2018)

www.shinchosha.co.jp

ユング派心理学の専門家、臨床心理学者の河合隼雄先生とシェイクスピア訳者松岡和子さんのシェイクスピア作品に関する対談集。臨床心理学者とシェイクスピア全作品を手掛けた訳者の異なる二視点からの話が異常に面白い。

 

[6] 白水社 夏の夜の夢 ウィリアム・シェイクスピア 著 小田島雄志 訳(1983)

www.hakusuisha.co.jp

日本語訳は3つ読みましたがこれが一番古い。注釈はついていない。

 

[7] 角川文庫 新訳 夏の夜の夢 シェイクスピア 著 河合祥一郎 訳(2013)

www.kadokawa.co.jp

河合祥一郎先生の訳。河合先生は2022夏の夜の夢(日生劇場)の訳担当。英語の押韻、韻文と散文の違いなどが日本語訳に反映されている。登場人物の名前がギリシャ語読み。注釈が充実している。

 

[8] ちくま文庫 シェイクスピア全集 4 夏の夜の夢・間違いの喜劇 シェイクスピア 著 松岡和子 訳(1997) 

www.chikumashobo.co.jp

松岡和子さんの訳。比較的手に入りやすい。注釈が充実している+あとがきから近年の上演の様子がうかがえる。

 

[9] 白水社 ハムレットは太っていた! 河合祥一郎 著(2001)

www.kinokuniya.co.jp

河合祥一郎先生がご自身の学位論文を一般書として書き直したもの。当時の社会常識と作品中の描写から、シェイクスピア作品初演時の役者の身体的特徴を論じる内容。初心者的にはちょっと難しかったがめちゃくちゃ面白い。

 

[10] ちくま文庫 すべての季節のシェイクスピア 松岡和子 著(2022)

www.chikumashobo.co.jp

シェイクスピア訳者の松岡さんが、シェイクスピア作品について掘り下げた内容を書いたエッセイ。現代において実際に上演された舞台の演出に沿ってシェイクスピアの代表作が解説されている。

 

[11] 駿河台大学論叢 = Surugadai University studies / 『駿河台大学論叢』編集委員会 編 『グリム童話』にみる個性化--「白雪姫」と「ふたりの旅人」 太田隆士(2008)

surugadai.repo.nii.ac.jp

「森 無意識」で検索したら出てきた。グリム童話から2つのエピソードを例に挙げて、グリム童話が個性化の話(ざっくり言えばアイデンティティの確立?心理学全然わからない 多分間違ってます)であることを論じた論文。多分専門的な内容です。難しかった。

 

[12] 研究社 新和英中辞典 第7版(2003)

「lunatic」の意味と語源を調べた。lunatic(狂気)は月が語源です。夏の夜の夢は狂気についてのお話です。(言い方が雑)

 

[13] 角川文庫 完訳 ギリシアローマ神話 上 トマス・ブルフィンチ 著 大久保博 訳(2004)

www.kadokawa.co.jp

テーセウスの話を読んだ。ギリシャローマ神話の登場人物の情報がギュギュッとまとまっています。忙しい人のためのギリシャローマ神話。分厚いけど。

 

[14] 新潮文庫 ギリシア神話を知っていますか 阿刀田高1984

www.shinchosha.co.jp

ギリシャ神話の中でも有名なエピソードについて解説した本。テーセウスが出てくるところを読んだ。イカロスの話ってそういう流れのやつだったんだ…

 

そもそもシェイクスピアって誰

ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)

・近世イギリスの詩人。エリザベス一世からジェームズ一世の時代に活躍した。生年はガリレオ・ガリレイ、没年は徳川家康と同じ。シェイクスピアの人生の間に日本では室町幕府が滅亡し、江戸幕府が開府している。

・イギリスのストラットフォード・アポン・エイヴォンに住む手袋職人の父のもとに生まれた。父は職人でありながら町長の座にまで上り詰めたが、何らかの事情によりシェイクスピアが子供のうちに家は没落した。(この背景には当時のイギリスにおける宗教対立があるのではないかという説がある[1,2]

シェイクスピアは18歳で結婚し20歳で三児の父となるが、その後20歳から29歳までの記録が途絶えている(シェイクスピアの失われた年月)[1,2,3]。再び記録に現れたのは29歳のときで、第三代サウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーへ捧げられた詩集「ヴィーナスとアドーニス」(1593年刊行)の著者として名前が残っている。この時点では既に故郷を離れロンドンに住んでいた[1,2]。また、1593年時点では既に初期作品をいくつか制作している。イギリスの田舎町の青年が消息不明になった後、再び記録に現れたときにはいきなり貴族とも関わりのある詩人となっていたため、このシェイクスピアウィリアム・シェイクスピアと別人ではないかとの説も囁かれるが、同一人物であるのと証拠がしっかり存在する[1]

・記録がないため、シェイクスピアが20代の大半にどこで何をしていたかは明らかになっていないが、1594年に宮内大臣のお抱え劇団(宮内大臣一座)が創設され、シェイクスピアはその座付き作家兼役者となった。(宮内大臣一座のメンバーのほとんどはかつてストレインジ卿一座に所属しており、ストレインジ卿一座はシェイクスピアの作品も上演していたため、ストレインジ卿一座との繋がりが強かったのではないかという見方ができる[1]。)劇団の幹部にもなり、経済的な成功も収めている(ただし劇団幹部や作家としての記録はかなり残っているが、役者としての記録は少ない[1])。

・初期の宮内大臣一座はロンドン郊外のシアター座やカーテン座で上演していたが、シアター座の地主と揉めたため、1599年にロンドンにより近いテムズ河南側へ劇場を建て直した[1]。これがグローブ座であり、日本の東京グローブ座は、もともとは実質シェイクスピア専用劇場としてテムズ河のグローブ座をモデルに建てられたものである。

・1603年にエリザベス一世が逝去した後、ジェームズ一世が即位した際に劇団は宮内大臣一座から国王一座に昇格した。シェイクスピア自身は1613年に引退し、故郷に帰った後生涯を閉じた。

 

シェイクスピア作品の中の夏の夜の夢

宮内大臣一座時代に作られた喜劇で、シェイクスピア作品の中では初期作品に分類される[1,3,4]シェイクスピア喜劇の中でも最も上演頻度が高い作品のひとつ[3,5]で、同時期の作品はロミオとジュリエット[1,3,4]。初演の年は明らかになっていないが、1598年に刊行された書物の中でシェイクスピア作品の1つとして挙げられている[6]

シェイクスピア作品には大抵種本(物語の元ネタ)があるが、夏の夜の夢は種本が特定されていない[3,5,6]。種本が見つかっていないシェイクスピア作品は全40作品中3, 4作品程度で、これらはシェイクスピア独自の創作であると考えられ、中でも夏の夜の夢はその最たるものと言われている[5]。なお、物語の中の個々の要素に関しては、ローマ・ギリシャ神話、イギリスの伝承、ヨーロッパの伝説などのエピソードが使われている。

シェイクスピア作品の中では短めで楽しい作品であること、愛や結婚がメインテーマとして扱われていることなどから、もとは貴族階級の誰かの結婚式を祝うために作られたものではないかという推測が広く受け入れられている[1,4,6]。当時の上流貴族の結婚祝いでは仮面劇や芝居の上演が行われることが多く、夏の夜の夢の劇中劇もそのための芝居として作られている。

 

夏の夜の夢ざっくりストーリー

 

【第一幕】

アテネの公爵テーセウスは元アマゾンの女王ヒポリュテとの結婚式を四日後の新月の日に控えてお祝い気分だったのだが、そこへ貴族のイジーアスが険しい顔をしてハーミア・ライサンダー・ディミートリアスを連れてやってくる。

ジーアスいわく、娘のハーミアが言うことをきかないので、テーセウスに法で裁いてほしいとのこと。ここで言うアテネの法律とは、娘は父親の持ち物であり、父親に従わない娘は死刑に処されるか、月の女神ダイアナ(処女神)に仕える尼となり一生人との関わりを絶つというもの。

ジーアスは娘ハーミアをディミートリアスと結婚させたいのだが、ハーミアはライサンダーと結婚したいと言う。ディミートリアスはハーミアと結婚するつもりでおり、ライサンダーは「僕はディミートリアスと地位も財産も同格だし、ハーミアと両想いだしハーミアと結婚するのにふさわしい。その上ディミートリアスは前までハーミアの親友ヘレナに言い寄り婚約までしていたのに、今ではヘレナを振ってハーミアに言い寄っているのはどうかと思う。その上ヘレナはまだディミートリアスが好き」と対立している。

公爵テーセウスは娘は父の言うことをきくべきだと思うし、法で決まっていることはどうしようもないので、ハーミアに父の言うことをきくか、死刑か、尼になるかのどれかを四日後(自分の結婚式の日)までに選ぶように言う。

 

テーセウスはお前たちに用があるからとイジーアスとディミートリアスを連れて、ヒポリュテと共に去っていった。

残されたライサンダーはハーミアに「遠方に仲の良い未亡人の叔母がいるからそこまで逃げて結婚しよう」と駆け落ちをもちかける。「五月祭の朝に僕が君とヘレナに出会った森で、明日の晩会おう」

という感じで駆け落ちの約束をしたところに、ハーミアの親友ヘレナがやってくる。ハーミアが声をかけるも、「あーーーハーミアは美人でいいなあああ!!!!どうすればディミートリアスに愛されるの!?やっぱりあなたが美人で魅力的だから!?あなたの容姿とか中身とかぜんぶ私にちょうだい!!!!世界が私のものだったらディミートリアス以外のもの全部いらないのに!!!!!!」と完全に荒んでいる。

ハーミアとライサンダーは「安心して、明日の夜駆け落ちするからもうディミートリアスには会わない。このことは秘密にしてね、その後ヘレナがディミートリアスと幸せになれますように」と言って去っていく。

しかし荒み切っているヘレナは「ディミートリアスにこれを教えればディミートリアスは森に行く、ついていけば私はその間ディミートリアスを見れる…」とディミートリアスに駆け落ちのことを教えてしまう。

 

という若者たちと父のいざこざとは全く無関係の話なのだが、町の職人たちも明日の夜に月明かりのもと森へ行くことにしていた。公爵テーセウスの結婚式の夜に出す芝居「世にも悲しき喜劇、ピュモラスとディスベの残酷なる死」の稽古のためである。芝居などしたこともないド素人の寄せ集めがやるしょうもない素人芝居だが、本人たちはこれが名演になると思い込んでいた。

 

【第二幕】

アテネの森では妖精の王と女王がケンカの真っ最中であった。妖精の女王ティターニアはインドで引き取ったかわいい男の子をかわいがっているのだが、妖精の王オーベロンはその男の子を欲しがっている。しかし女王が手放さないので、王と女王は会うたびすごい言い合いをしている。

そんなこともあって王と女王は顔を合わせていなかったのだが、妖精王オーベロンは元アマゾン女王ヒポリュテがお気に入り、女王ティターニアはアテネの公爵テーセウスがお気に入りなので、結婚祝いのために2人ともアテネの森に来ており、案の定鉢合わせしてしまった。

今夜も会うなり「妖精の国を抜け出して女の子口説いてた浮気者!」「お前が言えた話か!いいからあの男の子よこせ!」とものすごい言い合いが始まった。ちなみにそのインドの男の子はティターニアの信者が産んだ子で、女王とその信者は恋人かのように仲が良かったが、信者はお産で亡くなってしまったので女王がその子を引き取ったといういきさつ。

これ以上いるとまたケンカになるので女王ティターニアは去っていった。王オーベロンは女王に仕返しをしようと、いたずら好きの妖精パックを呼び、媚薬の材料を取ってくるように言いつける。この媚薬は「恋の三色菫」の汁で、これを眠っている者の目に塗ると、目が覚めて最初に目にした相手に惚れてしまうというもの(解毒剤もある)。女王にこれを塗って何かしらの奇妙なものに惚れさせ、無様な姿を晒させて、ついでにインドの男の子を奪おうという魂胆。

パックが花を取りに行っている間、待っている妖精王オーベロンのそばを、ディミートリアスと後を追うヘレナが通りかかる。ヘレナからライサンダーとハーミアの駆け落ちを聞いたディミートリアスは2人を追って森に来ていた。人間には妖精が見えないので、王はそのまま二人の会話を聞いていたが、ディミートリアスに冷たくあしらわれても健気に追い縋るヘレナがかわいそうになり、三色菫を持って戻ってきたパックに「アテネの娘が惚れた男に冷たくされててかわいそうだから、この媚薬を少し持って行って男の目に塗り、目覚めたら娘を見るようにしてやれ」と言いつけた。

 

妖精の女王ティターニアが花畑で寝ているところに妖精王オーベロンがやってきて、女王の目に媚薬を塗って去っていく。

その後そこにライサンダーとハーミアがやってきて、「疲れたし道に迷ったから一旦ここで寝よう」ということになる。ライサンダーは近くで寝ようと言ったが、ハーミアは結婚前だからまだダメ!と頑な。「なんで!何もしないよ!」「何かするなんて思ってないわよ!でも結婚前だからダメ!もうちょっと遠く!そうそのくらい!おやすみ愛してる♡」「僕も愛してるおやすみ♡」

そうしてライサンダーとハーミアが眠っているところに妖精パックがやってきて、「これが王様が言ってた男か!?エーッこんなにかわいいアテネの女の子が土の上で寝てるのにそばで寝てやらないなんて冷たい男だ!このヤロウ媚薬塗ってやる!」とライサンダーの目に妖精王から預かった媚薬を塗り、王のもとへ帰っていってしまった。

そこへディミートリアスとヘレナがやってくる。ディミートリアスはヘレナを置いて行ってしまうが、ヘレナは疲れてついていけない。その場で悲しむヘレナは寝ているライサンダーをふと発見し、「死んでる!!?!?」と起こしてしまう。

目に媚薬を塗られていたライサンダーはヘレナを見た瞬間「好きだ!!!ディミートリアスなんか叩っ斬ってやる!!!!」とヘレナに惚れてしまう。ヘレナは「からかってるの!?あなたハーミアの恋人でしょ!!」と憤るが、ライサンダーは「男は理性に支配されるもの!その理性が君だと言っている!」と言い寄り、ヘレナは「馬鹿にしないで!!!!!」と傷ついて去っていってしまった。

ライサンダーは「ハーミアに惚れていたのは(気の迷いに)騙されていたからだ、コイツなんかもう嫌いだ」と寝ているハーミアを置いてヘレナを追った。その後怖い夢を見て目覚めたハーミアはライサンダーがいないことに気付き、ライサンダーを探しに行った。

 

【第三幕】

妖精の女王ティターニアの寝床の近くに町の職人たちがやってきて芝居の稽古をしているところに、妖精パックが通りかかる。パックは稽古の様子を見ていたが、あまりにもクソだったので、主役の職人ボトムが仲間から見えないところへ引っ込んだ隙を見て、ボトムの頭をロバにした。

いきなりロバ頭になった仲間を見た職人は「ボトムが化け物になった!!!」と逃げ出し、パックは「あいつら森で迷わせてやろ!」と追いかけていってしまう。残されたボトムは仲間が自分を怖がらせようとしていると思って、怖くないぞ~と歌いだすが、その歌でティターニアが起きてしまった。

ティターニアは媚薬の効果でボトムに一目ぼれしてしまった。言い寄る女王に、ボトムは「奥さんそれは理性的じゃないんじゃないですかね…」と返すが、完全に惚れてしまった女王には響かない。(通常人間に妖精は見えないが、このときボトムには妖精の女王が見えている)(おそらくロバ頭だから)

ティターニアは「この森から出るなんて言わないで。私はただの妖精ではなくて、常に夏をかしずかせる妖精、その私が愛していると言っているのです」と妖精たちを呼んでボトムをもてなした。

 

妖精王オーベロンのもとに妖精パックが帰ってきて、妖精の女王ティターニアがロバ頭のボトムに惚れたことを告げる。そこへディミートリアスとハーミアがやってきて、王オーベロンは「例のアテネの男だ」と言うが、パックは「違う男だな…女の方は見たけど…」とパックの間違いが発覚。

ディミートリアスはハーミアに愛してると言い寄るが、ハーミアは「あんたライサンダーを殺したんじゃないわよね????」と敵意むき出し。一方のディミートリアスは「君の残酷さに殺されたのは僕…しかしあなたは女神ヴィーナスのように澄んでいる…」とはっきりしない。するとハーミアが怒るので「殺してないよ!!!!」と弁解するものの、ハーミアが怒ったまま去ってしまったので、疲れ果てたディミートリアスは「今追いかけても無駄だ…」とその場で一度眠りについた。

間違いが発覚して焦った妖精王オーベロンは妖精パックにヘレナを連れてこいと言いつけ、そこで眠っているディミートリアスの目に媚薬を塗った。

妖精パックはすぐに戻ってきて、ヘレナとライサンダーがすぐ来ると王に告げる。「おれが間違えた男もいて、ヘレナを口説いて汗びっしょりになってます ばかげた芝居を見てみましょ、人間ってなんて馬鹿なんでしょ!」

ライサンダーとヘレナがやってきて、「君のことが好きだ!」「嘘言わないで!私のことからかってるんでしょ!?」と言い合っていると、ディミートリアスが起きてヘレナに一目惚れしてしまった。自分の取り合いを始めた2人を見て、ヘレナは2人が自分をバカにしていると思って怒る。そこにハーミアもやってきて、ライサンダーに冷たくあしらわれ、ヘレナはハーミアまで自分をバカにしていると絶望し、ディミートリアスライサンダーはヘレナを巡って決闘しようと言い出し、ライサンダーがヘレナに本気だとわかったハーミアは「人の男を誘惑したのね!?私のこと馬鹿にして!」とヘレナを罵り、収拾がつかなくなってしまった。ディミートリアスライサンダーは決闘の場所を探しに去り、からかわれていると思っているヘレナはもう縁を切る!と逃げ出し、ハーミアも呆れてその場を去った。

大変なことになったと思った妖精王オーベロンは、妖精パックにディミートリアスライサンダーを引き離し、2人が眠ったらライサンダーの目に媚薬の解毒剤を塗れと言いつけた。

パックは声真似と黒い霧を使ってライサンダーとディミートリアスを迷わせ引き離した。散々歩かされたライサンダーとディミートリアスは疲れて眠ってしまい、ついでに同じく疲れ果てたヘレナとハーミアも近くで眠ってしまった。互いの姿を認識しないまま四人が眠ったところで、妖精パックはライサンダーの目に解毒剤を塗りつけた。

 

【第四幕】

若者4人がまだ眠っているころ、妖精王オーベロンは妖精の女王ティターニアが未だロバ頭のボトムにぞっこんな様子を見ていた。既に女王ティターニアからインドの男の子を引き取っていたオーベロンは、女王が少し可哀想になり、ボトムと女王が眠ったところを見計らって、女王に媚薬の解毒剤を使った。

女王ティターニアが正気に戻ると、オーベロンは控えていた妖精パックにボトムのロバ頭を取ってやるように言った。そして仲直りした女王と共に妖精たちを引き連れて、公爵テーセウスの婚礼を祝いながら、夜明けとともに去っていった。

 

アテネの公爵テーセウスは、伴回りの者たちと共に婚約者ヒポリュテを連れて森へ狩りにやってきて、そこで眠っている四人の若者を発見した。

テーセウスは「五月祭の準備のために早起きして、我々がここに来ると聞いて挨拶しようと来たのかな?そういえば今日はハーミアが決断の返事をする日だな!?」と4人を角笛で起こした。

テーセウスは「おまえたち(ライサンダーとディミートリアス)仲悪いじゃん?なんでこんなとこで一緒に寝てたの?」と尋ねるが、4人ともどうしてここにいるのかよく覚えていない。

ライサンダーが「本当のことを言うとハーミアと駆け落ちしようとしたような…」と言うと、テーセウスと共に来ていたイジーアスは「アーだめだコイツ!処刑だ!ディミートリアス、コイツ我々を出し抜こうとしたぞ!」と怒り狂ったが、当のディミートリアスは「確かにヘレナに駆け落ちのこと聞いてこの森まで追ってきたんだけど、なんかハーミアに興味なくなっちゃった 今はヘレナと結婚したい」などと言い出す。

これを聞いた公爵テーセウスは、「万事OK!イジーアス諦めろ!もう全員結婚しよう!2組ともおれたちと一緒に結婚式やろう!みんなでアテネに帰ろう!」と自らの伴回りと婚約者を連れて去っていき、若者4人は未だ夢か現か…と話し合いながらそれに続いた。

その場にまだ寝ていた職人ボトムはその後目覚め、「なんか底なしにすげえ夢を見たな…」と1人でアテネへ帰っていった。

 

町の職人たちは公爵テーセウスの結婚を祝うために芝居を出そうとしていたのに、一番重要な役のボトムが森でロバ頭になってしまったので、もう全部ダメだ…と落ち込んでいた。

するとそこにロバ頭の取れたボトムが帰ってきて、「俺たちの芝居が取り上げられたからすぐ宮殿に来い」と言う。職人たちはボトムの帰りを喜び、意気揚々と宮殿へ向かった。

 

【第五幕】

若者4人から昨晩の話を聞いた公爵テーセウスと婚約者ヒポリュテは、「不思議な話だ、信じられない」「でも全く筋が通っていないこととは思えません」と話し合っていた。そこへ若者4人がやってくると、テーセウスは「寝るまで時間があるから余興を楽しもう」と、いくつかある候補の中から「見たことないやつだしこれにしよう!」と例の職人たちの素人芝居を選んだ。(部下には止められたが大丈夫大丈夫!と観ることにした)

職人たちの芝居は本当に素人芝居ではあったが、一同はその素人芝居にやんやと野次を飛ばすのを楽しみ、余興は余興としての役割を存分に果たした。しょうもない芝居で時間を潰した一同は、それぞれの寝室へ消えていった。

人々が寝室へ消えた後、妖精王オーベロンと女王ティターニアが妖精たちを引き連れて現れ、結婚した三組の夫婦を祝って去っていった。

 

②③に続きます。

夏の夜の夢 予習ノート②(シェイクスピア作品について) - ショータイム

夏の夜の夢 予習ノート③(物語の構造と要素について) - ショータイム

松村北斗のパーソナルデザイン考察

メコンオタクをこじらせたジャニオタが無責任に喋り散らかす、SixTONESのパーソナルデザイン考察第4弾です。

 

第1弾(森本慎太郎)↓

coldginger.hatenablog.com

 

第2弾(髙地優吾)↓

coldginger.hatenablog.com

 

第3弾(ジェシー)↓

coldginger.hatenablog.com

 

 

私はジャニオタであると同時にイメコンオタクでもある。イメコンとは何ぞや?というと、イメージコンサルティングの略で、肌や髪や目の色、顔立ち、骨格、雰囲気などから、その人が最も魅力的に見える装いの傾向を割り出そう!というもの。

メコンの軸となるのは各種診断。有名どころを挙げるなら、

・パーソナルカラー診断

・骨格診断

・顔タイプ診断

・パーソナルデザイン診断

このあたりだろう。一番有名なのはパーソナルカラー診断か骨格診断だと思う。最近化粧品業界からよく聞くよね、ブルベ向けとかイエベ向けとか…

そういうのを見るたびそんな単純な話じゃねーーーーんだよ!!!とイメコンオタクの血が湧く、という話は第1弾でも確か書いてた。このブログの趣旨からは外れるので、これについては掘り下げないことにする。

 

今回私が喋りたいのは松村北斗のパーソナルデザインである。

 

パーソナルデザイン診断は、その人の見た目を総合的に見たとき、どのようなテイストの装いが最も魅力的に見える(似合う)か診断するもの。男性なら以下の5つのどれかに必ず分類される。

・ファッショナブル(シャープで派手)

ナチュラル(カジュアルな印象)

・グレース(都会的で上品)

・ロマンス(甘くセクシー)

・ハイスタイル(キュートで個性的)

今までのブログでは、私は慎ちゃんがロマンス、髙地さんがハイスタイル、ジェシーがファッショナブルと推測した。

 

ただしここでご留意いただきたいのが、パーソナルデザインは素人に診断できるものではないし、私はただのオタクにすぎないド素人だということである。以下、松村北斗の服と印象について長々語ることになりますが、あくまでも推測、考察遊びの域を出ないことだけ念頭に置いてお読みください。それではレッツゴゥ!!!!

 

 

 

 

正直わからん。

わかりにくいタイプだと思う。まあプロであれば診断の技能を持っているので「わからん」ってことはないだろうけど、診断技術を持たない我々素人にはとても判断が難しい(まあプロの手にかかっても診断が結構難しい人も割といるみたいだけど)。

それに、松村北斗という人間、「何でも似合うように見えてしまう」のだ。1人のイメコンオタクの主観として、私は「誰にでも似合うアイテム」や「何でも似合う人」というものは存在しないと思っている(「似合う」の定義を都合よく自由自在に動かしていいなら話は別だけど)。しかし、「何でも似合うように見える人」なら存在するような気がする。

これは私感にすぎないのだが、イメコンオタクの民を見るに、人間には「イメコンスペックに当てているときはとんでもなく輝いてるのに外したら完全に魅力が死ぬ人」と、「イメコンスペックから外しても死なないので『何でも似合うじゃ〜ん』ってなるけどイメコンスペックに従う装備だと比にならないくらい輝くので思わず平伏してしまう人」の2種類がいる。これは顔面偏差値等の問題ではない。どんな顔面偏差値や骨格偏差値であろうと、それを問わずにシンプルに2種類いる。多分。私感では堂本剛が前者で堂本光一が後者である。(私感ばっかり)

恐らく松村北斗はゴリゴリの後者。その上彼は何かに染まるのが異様に上手い。自分が着ている服にも簡単に染まる。自ら似合いに行っている。まあわかりづらい。カメレオンみたい。

 

とはいえ多少の、素人にも辛うじて掴める程度の似合う・似合わないの振れ幅はある(ということにしておく)。今回はその僅かな振れ幅から、まずは「これは違う」というものを落としていく形で考察していきたい。全く自信はありません。これまでの考察ブログの考察にも自信はありませんが、今回は更にダントツで自信がありません。便宜上ある程度自信ありげな断定型の文章で書きますが、以下はマジで確信のない虚妄であるということを前提に置きながらお読みください。

 

 

松村北斗といえば個性的な服である。SixTONESにおいて個性的な服といえば松村だし、松村といえば個性的な服である。ジュリタナカにも「私服のセンスは意味不明」と歌われている。

 

謎の柄のズボンを履いている松村(秒数指定)↓

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独特なメッシュ使いのTシャツを着る松村↓

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クエックエックエッ(秒数指定)↓

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松村北斗って感じだ。

しかし、パーソナルデザイン的な意味における「似合う」ではない気がする。パーソナルデザインでは、パッと見の第一印象で「この人は信頼できる」「この人をぞんざいに扱ってはいけない」という印象を与えられるものを「似合う」と表現する。北斗がこれらの服を着た場合、そういう印象を全く受けないわけではないけど、なんかもっと他にあるような気がする。少なくともこの観点において、ベストな装備でないと言うことはできる。

あとこれは完全なる私感だが、個性的な服を着て個性的になる人は個性的な服が似合う人ではない(パーソナルデザイン的な意味において)。個性的な服が似合うとされるスペックの人(パーソナルデザインキュートとかハイスタイル、解釈によってはファッショナブル)を見ていると、単体で見れば個性的であったはずの服が、その人が着た瞬間、普通の服になってスンッと馴染んでしまう。このタイプはSixTONESで言えば恐らく髙地優吾(私はハイスタイルと推測)である。 

上に挙げた例の北斗が着ている服はハイスタイル向きのものだと思う。どちらかというとかわいくて変化に富んだデザインの服である。これを着て個性的に見えるということは、恐らくすなわち個性的な服に強いタイプではない。また、個性的な服が似合う人(ハイスタイル等)視点から冷静に見れば、北斗が着ている服そのものはそこまで個性的なわけでもない。

逆に言えば、少し個性的な服を着るだけで個性的に見せることができるお得なタイプである。私感だが、個性的な服が似合ってしまう人は、かなり頑張らないと個性的に見せることができない。

ということでハイスタイルは選択肢から消しておく(いやいいのかな…これ外して大丈夫かな…しかし北斗からハイスタイル要素は感じ取れないのでやっぱり消しておく)。

 

次に、パーソナルデザイン「ナチュラル」について考える。日本におけるパーソナルデザイン診断の第一人者、香咲ハルミ先生は、ジャニーズで言えば嵐の相葉ちゃんがナチュラルであると言及されている。その相葉ちゃんの説明がこちら。

 

嵐のパーソナルデザインについて言及されているブログ↓

www.kosakiharumi.com

ジーンズにシャツをサラリと羽織った感じが似合う」

「テレビ番組のなかで、動物を追いかけて走り回っている姿も合っている」

(一部抜粋・要約)

 

松村、ナチュラルとは違くない???

ファンの間でこそ、彼が実は無邪気ではしゃいでそこらを走り回るような人間だと知られているけど、北斗がピンで立っている写真を見て、大自然の中走り回る姿はまあ想像できない。

服装の観点から見ても恐らくナチュラルではない。「ジーンズにシャツをサラリと羽織った感じが似合う」。まあ北斗にこれが似合わないとは思わないけど、もっと似合う服が他にある気がする。ジーンズにシャツをさらりと羽織った北斗は、多分何となく、北斗の服ではなく撮影用衣装を着ているように見えると思う。(テレビ誌の見開き2ページくらいの特集で、SixTONES全員が同じ衣装を着ていて、見開き1ページに渡って座談会テキストがあって、全員ずっとボケ倒している。)

個人的に、ハイスタイルよりは外すのに躊躇があるのだが、まあ外さないことには話が進まないので、「一旦」「一応」外しておくことにする。

 

 

これで残ったのは「ファッショナブル」「ロマンス」「グレース」の3つ。ここからがわからない。も〜〜〜わからない。

顔まわりに曲線があった方が良さそうだし、曲線耐性が高いから、ロマンスかとも思った。

 

顔周りに曲線がある松村↓

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 衣装も曲線を取り入れたものが多い。

 

揺れる柔らかいリボンは明らかに曲線要素↓

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インナーのレースがド曲線↓

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顔周りにフリルがあり、柔らかい揺れる素材の布がいっぱい生えている↓

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あと、静岡の自販機で入手した腕時計が似合うあたり、ロマンスと捉えて問題ない気がする。

 

松村が自販機で入手した女性ものっぽい腕時計(妙に似合う)↓

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しかし、どうにもマジモン(マジモン?)のロマンス!という感じがしない。

香咲ハルミ先生によると、ロマンスの男性は、ジャニーズで言えば木村拓哉松本潤。この2人は説明がいらないくらいのドロマンスとのこと。あと、香咲ハルミ先生は言及されていないが、数多くのプロの方が名前を挙げているのが堂本光一堂本光一も説明がいらないくらいのドロマンスとみなされていると言って良いだろう。

香咲ハルミ先生によると、木村拓哉は「曲線が似合う、華やかに前に出てくる王子様タイプ」。また、元SMAP稲垣吾郎もロマンスで、こちらは少しタイプが違って「外見や雰囲気、動作の線が細くて上品で甘く、静かに甘く微笑んでいるのが似合う」とのこと。また、松本潤に関しては「顔が甘い」と一言で片づけられているので、それだけわかりやすいロマンスということだろう。

 なんとなく、松村北斗はこのあたりのドがつくロマンスとはカテゴリが違う気がする。塩顔と言われつつもなんとなく甘ったるい顔をしている気もするのだが、このそうそうたるドロマンスのメンツと並べたら甘くはないんじゃないだろうか。(この点についてはかなり自信がない、どうですか?)

また、露出耐性についても気になる。香咲ハルミ先生のブログを読んでいる限り、露出耐性の有無はそこまで重要ではないのかもしれないとも思う。しかし、これは私感だが、ロマンスにはやはり露出耐性が高い人が多い気がする。ここで露出耐性とは、「露出が多くても露出しているように感じない、露出が多いと上品に見える」ことを指す。

 

松村……………………………………露出してると「エロい」んだよなあ………………………………………………………。

 

松村北斗、露出するとちゃんと露出してる感が出るのだ。ロマンスの人間を見ていると、露出したところで「エロい」という印象もないし、そもそも露出していることに気づかない場合も多い。例えば堂本光一松本潤がシャツを第二ボタンまで開けて胸元をさらしていたところで、パッとみて胸元が開いてるなあ!という印象を受けるだろうか。多分受けない。松村北斗は多分受ける。

もちろんこれは私の(ファンであるがゆえの)フィルターがかかっている可能性が多分にある。しかし、あながち私のフィルターのせいだけでもない気もする。いや多分そう。この場ではそういうことにしておこう。「松村北斗、露出耐性が高くない」。この場ではそういうことにしておきます。なぜなら話が進まないから。

 

まとめると、「曲線耐性が高いのでロマンスっぽいが、ドロマンスの人に比べると甘い雰囲気はないし、露出耐性も高くない(私のフィルターのせいである可能性も高い)」ということになる。

かといって、残り2つ(ファッショナブル・グレース)かと言われると多分それも違う。ファッショナブルの特徴は「大きい・大人・盛り」で、ファッショナブルど真ん中の装備には北斗は負ける気がする。この「大きい」というのはマジで半端ない大きさなのだ。グレースの特徴は「知的・直線・都会的」で、曲線要素が入る余地がない。

 

多分、松村北斗はひとつのパーソナルデザインだけでは説明がしづらいタイプなのではないだろうか。

そもそも、パーソナルデザインの診断結果で「このタイプど真ん中です」と言われる人は多くない、というか体感ではあるがほとんどいない。通常、「メイン」のタイプに加えて「サブ」も結果としてついてくる(例えば私はメインがファッショナブルでサブがナチュラルである)。

また、パーソナルデザインのメインとサブは人によってその割合が違う。そして、これはあくまでもイメコンオタクの体感だが、適切な捉え方も違うように思う。メインが9割8割の人もいれば、メイン6割サブ4割でかなり両者の割合が近い人もいる。「基本メインだけ考えればいいけどサブも取り入れることができる」人もいれば「メインはメインだけどサブも考えなければ説明できない」人もいる。松村北斗は、もしかしたら2種類のパーソナルデザインを考えなければならないタイプかもしれない。

(ただ、男性の場合、市場に出回る服のレパートリーが少ないので、そんなに詳細に診断をつけても生かしきれない、ということで通常メインだけしか結果を出さない。というブログを読んだ記憶があるのだが、探しても探しても出てこない。見かけた方はご一報ください。)

 

もし北斗を2種類のパーソナルデザインの組み合わせで説明するなら、ロマンスは入れていいだろう。理由は前述の曲線耐性の高さである。そうしたらもう1つは何だろう………………………?

とりあえず私はグレースであると推測する。

大きいアクセサリーもなじんでいるので、ファッショナブルと考えてもいいのかとも思った。ぶっといバングルや太い指輪を複数つけていることが結構ある。

しかし、北斗の体の大きさを考えるとそんなに大きいアクセサリーでもないな、とも思う。彼がつけている程度の「大きいアクセサリー」の大きさなら、ロマンスの盛り耐性でも十分対応できる範囲と考えていいだろう。盛り耐性といえばファッショナブルなのだが、ロマンスも盛り耐性の高い方ではある。

 

一方、グレースについて考えると、どこにその要素があるのかといえば、露出耐性の低さである。

ロマンスとは違う種類であるものの、ファッショナブルにもある程度の露出耐性がある、というのがイメコンオタク界における通説であるように思う。ロマンスのように「露出すると上品に見える」というよりは「堂々としていて露出が様になる」タイプで、同じく「露出していても露出しているように見えない」。もし北斗がロマンスファッショナブルだったら、もうそれは本当に露出耐性が一番高いタイプの人間になる。しかし彼は露出するとちゃんと露出した感が出る。

北斗がグレース向きの服を着ているのは、代表的なところだとおそらくCLASSY. の「もし松村北斗くんが会社の後輩だったら」シリーズである。基本遊びのあるコーディネートが多いのだが、1パターンはシンプルで直線的でノーマルなスーツを着ている。その装備だと少し窮屈で寂しく見えるので、グレースど真ん中ということはないだろう。ただ、エッセンスが多少含まれていると考えても不自然ではないと思う。

グレースはとにかく露出耐性が低く、露出すると「見てはいけないものを見ている」感が強く出る。ロマンスにこの要素を少し添加すると、松村北斗が出来上がるのではないかと思うのだ。「基本はロマンスで曲線耐性が高く、曲線の遊びがあるデザインが似合うが、グレースの要素を持っているため露出耐性は低め」くらいで説明できないだろうか。

(ここでグレース要素を持っていることによって似合うようになるアイテムなどを示せれば良いのだが、そこまで力が及ばなかった。強いて言うならきっちりしたジャケットスタイルで仕事ができそうに見えることと、少し華奢なアクセサリーでもアクセサリーとして機能する点かな、とは思ったが、これはおそらくロマンスにも言えそうなところである。)

 

 

ここまで長々と喋り、「基本ロマンスで少しグレースが入っている」という結論を出したのだが、まあマジで自信ない。マジで自信ないです。

書いた中で比較的「多分そうじゃないかな」と思えるのは、

・ハイスタイルではない

ナチュラルはメインに来ない

・グレースど真ん中ではない

・曲線耐性が強い(=ロマンスが入っている?)

この4点のみです。

正直無理矢理ロマンスグレースという結論を出しましたが、パッと思いつくだけでも

・ファッショナブルロマンスでロマンスは曲線耐性要素のみ、骨格および顔タイプ的に露出が苦手

・ほぼファッショナブル、曲線を足すと良い

・ロマンスナチュラ

・グレースロマンス、グレースがメインだがロマンスが強めで曲線を足さなければならない

・ロマンスど真ん中と考えて良い、顔タイプ的に露出が苦手

・そもそもいつから曲線耐性が高く、露出耐性が低いと錯覚していた?

などなど可能性が無限に出てくるので、よろしければ有識者の方、見解をお願いします。

 

 

※顔タイプ診断について

最後にいきなり顔タイプの話を放り込んでしまったのだが、これはパーソナルデザインと同じく似合う服のテイストを絞る診断である。パーソナルデザインは全身を見てタイプ分けをするが、顔タイプ診断では顔のパーツの形や大きさ、配置を数値化して分類する。

北斗のパーソナルデザインはハイスタイル(=子供タイプ)ではないと思うのだが、北の顔タイプは子供タイプである(これは顔タイプ診断のプロの方が言及されていたので、そう考えて良いと思う)。このようなパーソナルデザインと顔タイプのねじれはよく見られる。

今回は顔タイプのことを考えずにパーソナルデザインのみで考察を簡潔させたが、顔タイプも考慮するとなるとまた違う議論になってくる気がする。イメコンオタク界を見てみると、「パーソナルデザインはこうだけど、顔タイプがこれだからこうした方がいい」みたいな人は結構いる。

SixTONESの顔タイプについてはプロの方が全員に言及されている上に、結構おもしろい形になっているので、いつか何らかのブログにしてみたいです。

6年目のSixTONESによせて、ピザブドウと月バナナ

5月1日だ!

SixTONESの結成日だ!

5周年おめでとう〜〜〜〜〜!

 

私は数多くの沼を渡り歩いてきたのだが、飽き性なのかなんなのか、1年以上浸かっていた沼は実は片手で数えられるくらいしかない。そして1年以上浸かっていた沼には、熱量のムラこそあれど、今でも最低足首くらいまでは(そのコンテンツが終わっていない限り)浸かっている。

実はSixTONESからすぐに冷めちゃったらどうしよう…などと思っていたのだが、5月1日を迎えて、SixTONESと出会ってもうとっくに1年を超えていることに気が付いた。ので、なんだかSixTONESが続く限りSixTONESを追い続けられるような気がしている。多分追い続けられる。経験上。熱量のムラはあると思うけど。

 

 

6年目のSixTONESということで(まあそれにはあまり関係ないんだけど)、私の正確な沼落ちはどこなのか?ということを考えていた。

一番最初のブログで私の沼落ち経緯を長々と書いたのだが、具体的な落ちた瞬間については「YouTubeを見たら秒で落ちた」としか書いていない、というかそれを書いたときはそれしか覚えていなかった。でも、なんかもっと細かい経緯があったはずなのだ。

確か一番最初に見た動画は1年越しの食事会だった。

 

1年越しの食事会↓

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確かこれを見たときはまだ落ちてない。ていうか一番最初に見るべき動画ではないし、ジャニーズJr.の存在自体数週間前に知ったみたいな人間が見ても「なんのこっちゃ?」で終わるし。実際なんのこっちゃ?だったし。

しかしこの動画を見て「バックグラウンドがわかればクソ面白いやつだな」と察知した。こういう嗅覚には自信がある、何しろオタクなので

ということで「なんのこっちゃ?」となった私は「ダメだダメだ最初から見よう」とすぐに動画を遡った。目に留まったのは最初の企画会議である。

 

これ↓

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なるほど企画会議かあ、(もっと古い動画はあるけど)だったらこれが実質一番最初の動画だよねえ。といった感じで次にこれを見たのだと思う。なぜこれを探し当てられたのかはちょっとよくわからない。このときの私は、Jr.チャンネルが複数グループで構成されていることもいまいち把握してないし、SixTONESについても「真ん中が小文字」くらいにしか認識していなかった。この状態で企画会議にたどり着いたのは完全に奇跡。

(だいぶ後になってから気がついたが)自己紹介動画(というか挨拶動画)は既に投稿されていたから、企画会議はヌルッと始まり、ヌルッと進んでいく。ヌルッとした空気感だが、私はヌルッとした空気感が大好きである。ヌルッとしてるな〜と思いながらそれなりに楽しく見ていた。この人たちメチャメチャごはん食べてるな…

 

 

思い出した。

私の沼落ち、ここです。

 

 

秒数指定↓

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ピザブドウ。

 

 

畳み掛ける月バナナ。

 

秒数指定↓

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(おまけでジョン)

(秒数指定↓)

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樹ちゃん「お店の置物に名前つけないでください」

 

 

大我ちゃんがクルッとボードを返した瞬間、「どうもピザブドウです」。ここで私は完全にノックアウトされてしまった。

ピザブドウて!!!!!どうもピザブドウですじゃあないんだよ!!!!!!!!!月バナナもなんなんだよ!!!!!でもってお店の置物に勝手に名前つけるんじゃないよ!!!!!!!!!! 多分数分は笑い転げてたと思う。今でも笑い転げるので

ここで一気にツボを掴まれてしまって、もう一気に動画を見た。あっという間に最初に見た1年越しの食事会に戻ってきた。いきなりアーンするんじゃあないよ

 

ア~ン♡(秒数指定)↓

youtu.be

 

こういうテンポが良かったりシュールだったり突飛だったりクソ自由だったりするのが私の大好物。SixTONESの音楽性とか世界観とかとの私の趣味の相性の良さとか、その後のより深い沼落ちへの後押しは数多くあるけど、沼落ちのきっかけは?と言われたら「ピザブドウ」「月バナナ」である。

 

こんにちは月バナナ出のスト担です。

 

こういうシュールで頭の回転の速いクソ自由かつ無駄に出来上がった遊び(この遊びはゲームのみならずシンプルなトークも含む)はSixTONESの得意とするところである。SixTONESは車くらいの大きさの箱に詰め込んでおくのが一番面白いという説は、スト担の間では結構広く認められているのではなかろうか。多分そういう環境にSixTONESを置くと勝手にそういう遊びをおっ始めるのだ。そういえば初回の企画会議も、実質車くらいの大きさの箱に詰め込まれてたな…

 

なんだかシュールでしょうもない沼落ちで申し訳ないのだが、シュールでしょうもないのが大好きなので仕方ない。私は月バナナ出のスト担です。(しょうもねえ〜〜〜〜〜!)

 

皆さんの沼落ちを見ていると、皆さん結構正当な方向から落ちているというか、真っ当なアイドルへの落ち方という感じがする方が多いのだが、こういうしょうもない落ち方をした方、実は結構いらっしゃるんじゃないか?この中にしょうもない沼落ちをした方はいらっしゃいませんか!?

あと大我ちゃんのこの死ぬほど自由なボード芸がなければ私はSixTONESに落ちていなかった可能性がある。大我ちゃんマジでありがとう。月バナナとピザブドウもありがとう。これからも自由に暴れ回ってほしい。 まあ大我ちゃんはピザブドウと月バナナのことほとんど忘れてそうだけど。

 

 

記念すべき結成日にこんなしょうもないブログを投下するのも少し気が引けますけど、仕方ないね、ピザブドウと月バナナについて喋りたくなってしまったので無理矢理投下します。今の私の夢はSixTONESが狭い空間に詰め込まれる冠番組が何年か後にレギュラー化することです。以上です。

我々は勝手に戦争をしていた(SixTONESとSnow Manのデビューシングル発売初週)

vs売りはもうごめんだ!!!!!!!

 

99.99%くらいのSnow ManSixTONESのファンはこう思っているんじゃないだろうか。マジで疲れた。SixTONES vs Snow Man、デビューシングル発売初週がひとまず終わった。

 

前代未聞のジャニーズの2グループ同時デビュー、しかもそれぞれのグループはレーベルが違う、しかし両A面、というトンチキなイベントである。発売初週は各界隈、これまでになく混沌を極めていた。マジでなんなんだこれ。「レーベルは頭抱えたと思うで ややこしいことしやがってっていう(by 村上信五 in SONGS OF TOKYO)。」

 

こんなのは今後一切ごめんだし、後続Gにもこんなこと経験してほしくないけど、一旦、私の視点では何が起きていたのか、記憶が新しいうちに記録しておきたいと思う。似たような文章を書く方も多くいらっしゃるだろう。様々な視点からのそういった記録を合わせることで、今回どんなことが起きていたのか、なんとなく全体像が見えてくる気がする。

 

最初に、私の立場をできるだけ明確にしておきたい。

私はSixTONESのファンである。デビュー組にも推してるGはあるけど、今回はほとんど関与しない(KinKi Kidsです)。これまでのブログでも何回か書いたが、ジャニーズにハマったのはごくごく最近である(まあ2019の冬くらいですかね)。すなわちこれ以前のデビューの際の状況は知らない。

Snow Manというグループ自体はファンでもないけど嫌いでもない。普通。SixTONESに関係性が近いグループなので、まあ「馴染みがある」くらいの感覚だろうか。阿部ちゃんがかわいくて好きです。あと2018-2019のカウコンのパフォーマンスが超かっこよかった。カウコンの放送前パフォーマンスってどこのGも超かっこいいの、あれなんなんだろうね?2019-2020放送前も待ってます。誰に言えばいい?事務所?

vsに対してのスタンスは、「うっわ〜すっごいめんどくせえことになったなあ」といったところ。もちろん単独デビューの方が良かった。主観ではあるが、これは両Gのファンのだいたいの人がそう思っているだろう。でも決定したことはもう仕方ないし、ファンに決定権はない。運営側が打ち出した方策に対して、こちらはこちらができるやり方で対応するまでの話である。「単独が良かったな〜」とは言うかもしれないけど、それは誰に言うのでもない独り言である。「昨日あんなに飲まなきゃ良かったな〜」くらいのノリで口に出すやつ。言う必要もないので普段は言わない。(ちなみに私はほとんどお酒が飲めない。)

あっでもCDは完全なる単独が良かったよ…まあ普段は言わないし、いう必要もないし、誰に意見をする気もない。スノストは完全にグループカラーが違うので、両A面にしてしまうとどうしても世界観に混じりけが出る。2ndシングルかアルバムかわからないけど、次の作品を今から楽しみにしてます。SixTONESが次の作品を出せるように、私もほどほどに頑張ろうと思う。

両Gの露出差や扱いの差など、たびたび話題に挙がる問題に関しては、私は特に何かを強く思うということはない。Snow Manが何かに出ている、と聞くたびに「おーまた出てんのか」とは思っていた。すっげえ露出に差があるなあとも思ってはいたが、まあ別に…というか、何の感想もないというか。SixTONESの露出を追うだけで精一杯だったのもあるかもしれない。

共演する場合に関しても、単独で出ているところが見たいとは思うけど、共演がどうしても嫌!まではいかない。SixTONESはメンバー全員、誰一人として共演でも埋もれることがないからだと思う。単独出演が決まったら狂喜乱舞はするけども。

まあでも、MVの再生回数とか、そういった「同じ土俵でしっかり数字が比較できてしまうもの」については、ちょっと気になってしまうところはある。ちょっと負けたくねーな!みたいな。こういうところで「同時デビューってめんどくさいなあ」と思う。私も含めてだが、SixTONESのファンは「◯◯までに◯◯回再生!」みたいな、上の目標に向かうのが好きな傾向にあるように思う。そういったところに、隣に公式な比較対象がいると、それも気にせざるを得なくなってしまうのだ。上も横も気になっちゃう、みたいな。気になる方向が増えるとちょっと疲れる。

こういった感じで、私はSixTONESオンリー(正確にはオンリーではないけど)の中ではかなりの穏健派だと思う。多分。Twitterでのフォローもだいぶ穏やかな方が多い。スト担の方が大半だが、掛け持ちの方もいらっしゃるし、オンリーの方もSnow Manについてはあまり言及することはなく、言及するにしてもスノスト共演の番組の内容にウケている、といった感じで、まあ基本的に平和なTLである。私が割と価値観の近そうな方をフォローすることが多いから、まあそれはそう。両A面が発表されたときはそこそこ荒れたけど。

以上が私の立ち位置である。長いな。でもどんな人が書いているのか明確にしておくことは、今回の件では特に重要である。

 

 

ことの発端は、Jr.チャンネル開設当時にまで遡ると思う。以心伝心ゲームでの「SixTONES最大の目標は?」というラストの問題。

 

とことん回答が揃わないSixTONESの以心伝心ゲーム↓

www.youtube.com

 

慎ちゃんが「ビルボード」と答えている。スト担はこれを覚えていた。デビュー発表の後の割と早い時期(少なくともデビュー曲解禁より割と前)から、Billboardを意識する動きがあったように思う。何しろ他5人の目標と違って、Billboardには明確な指標がある。ファンの動き次第で押し上げることができるのだ。

もちろん世界のチャートを最初から狙う人はいない(いたかもしれないけど少数だろう)。世界を目指すにはまず日本から。Billboard JAPANを意識した運動が始まった。一番最初はvote垢である。BillboardTwitter指標を意識したアカウントで、アーティスト名と曲名を入れたツイートをし、それをRTし、ツイート数を増やす。vote垢じゃないアカウントでも、曲名が発表されると同時に、「SixTONES」と「Imitation Rain」を入れたツイートが量産された。初期はTwitter指標しか伸ばせる指標がないからである。私はvote垢こそ作らなかったけど、どうにか頭を捻って両方を入れ込んだ文章を連投した。たくさんのvote垢の方々が拾ってくださいました。ありがとうございます。

(この流れは韓流アイドルの界隈でかつて起きていた流れを参考にしたものと聞いているが、情報としては全く定かではない。)

 

こんな感じで、ファンが勝手にBillboardを意識した運動を始めたのだ。オリコンは合算だけど、Billboardは単独の数字が出る(曲ごとの集計だから)、というのも一因である。

この運動の成果は思っていたよりずっと早く訪れた。12月7日のCOUNT DOWN TV。この番組のランキングに、たった一度、ベストアーティストで披露されただけのImitation Rainがランクインした。もちろんフルなんて誰も聴いたことがないし(今振り返ると一番短いバージョンだった)、音源自体まだ完成していなかったことが後日判明した。つまり完全にTwitterでの運動のみによってランクインしたのである。番組スタッフの方々、大変だっただろうなあ。

この出来事によって、もともと数字を意識する体質のスノストのファンが、「外部における数字」の大切さに目覚め始めたように思う。デビュー組として数字をもって戦うことの片鱗がちらついた、というか。

この頃あたりから、Snow Manのファン界隈でもBillboardを意識する動きが出てきた、らしい。違ったらマジでごめんなさい。Snow Manのファンの方は掛け持ちの方以外ほとんどフォローしていないので、動きを把握できていません。

ここからは両Gの動きが活発になり始めた。ジャニーズは基本的にオリコンを重視しているように思うのだが、今回のスノストに関しては「ファンが勝手に」Billboardを意識するファンダムと化した。

運営もメンバーも、Billboardのことは言っていないのだ。慎ちゃんがずっと前、デビューの話なんて出てもいないであろう頃に目標に掲げていた以外には、少なくとも私の記憶では彼らがこれに言及したことはない。CDTVでのランクインをSixTONESメンバーから感謝されはしたが、これはBillboardに言及されたわけではなく、Billboardのための運動が予想外のところで身を結んだ、その結果に対するものである。完全にファンが自らの意思をもって、独自に動き出している。

しかしここまではまだ平和だった。露出差とかところどころで出るボロとか疑惑とかはあったけど、別に熾烈な争いとか、そういうことにはなっていない。まあ予約数ランキングで地味な争いをなんとなくしている感はあったけど。ハイタッチ会で予約ランキング落ちて、ミリオン発言で上がったの面白かったな。

 

そして訪れた発売初週。CDの売り上げはBillboardでも大きな係数を持った指標だし、オリコンでも合算ではあるが明確な数字が出る。勝負の週である。ここで出した数字が今後何十年も語られ続けるし、今後の活動を大きく左右する。

Billboardの指標の中で、今回ファンが直接・間接的にどうにかできるのは、CDセールス、ラジオ放送回数、CD読み取り数、MV再生回数、ツイート数、カラオケ。全ての項目において熾烈な競争が繰り広げられた。

互いの曲のラジオでのOA回数が監視された。ラジオへのリクエストは、どのくらいされていたのかわからないけど、両G相当数になったのではないかと思う。テレビ出演の影響も大きそうだけど、MVの再生回数もとんでもない速度で伸びた。カラオケのランキングも監視された。Imitation Rainで履歴を埋めたフォロワーさんもいらっしゃった。ルックアップの呼びかけもさかんだった。

ツイート数の争いも熾烈を極めた。TLがアーティスト名と曲名で埋まった。普段穏やかな私のTLですら戦争状態で、流れの速さが数倍以上になった。TLに占めるRTの割合なんて何倍になっていたんだろうか。普段ならついても1桁だろうな、というツイートに、平気で4桁のRTがついた。こんなでかい集団で垢BAN対策が出回ることある???

私がフォローしている方にはあまりいないのだが、全く関係のないツイートの最後にアーティスト名と曲名を入れたツイートもしょっちゅう見かけた。どんなカウント方法をとっているかわからないから、ついランとかYahooのサービスとかを駆使して、おおよそのツイート数とランキングが監視されていた。多分一番気軽に伸ばせる指標だから争いが激化したのだろう。その波は他Gの担当の方々にも及んだ。(本当にありがとうございます!!)

(ついに両Gメンバー本人たちからもこの運動を暗に手助けするような動きも出てきたが、彼らの意図が正確にははかりかねるので、ここではこれ以上の言及を避けたいと思う。個人的には彼らから我々への愛であると解釈している。)

私もvote垢こそ持っていないが、vote垢のような勢いでRTとツイートをした。あんなTwitterの使い方したの初めて。

ツイートと並んで、最も過酷な戦いがされたのはCDセールスではないだろうか。何しろとんでもない係数を持つであろう指標である。スト担に関しては本人たちからミリオンの言及があったことも大きい。(Snow Manからもミリオンの言及はあったらしいが、よく知らない。)

発売前、横アリMCレポによると、SixTONESは「予約数をなんとなく把握している、初動ミリオン目指したい、力を貸してください」と言及した。これについてファンの間、ファンとメンバーの間で認識が分かれていたのも混沌の一因かもしれない。すなわち、単独ミリオンなのか、合算ミリオンなのか。私は現実的な線ではまあ合算かな(2で割って初週50万ということなので、現実的かつそこそこいい数字である)、と思っていたのだが、単独ミリオンと捉えた方も多かったようだ。

しかし、おそらく私のような方でも、フラゲ日のオリコンデイリーランキングBillboardの速報を見て、「単独ミリオンだったのか!?」と認識を変えた気がする。だって、フラゲ日のオリコンデイリーランキングで、推定売上枚数は合算77万枚を超えていたのだ。そんなの、合算ミリオンなんて結構簡単に到達してしまうのではないか?だって2Gの合算だもん。Billboardの速報ではSixTONES単独でフラゲ日だけで47万枚を超えていた。単独初週ミリオン、狙えるんじゃない‪?と思ってしまうのも仕方ない。

 

1/20〜1/21(月曜日、火曜日)の売上に言及したBillboard JAPANのニュース↓

www.billboard-japan.com

 

また、Billboardの初動3日間売上速報では、SixTONESの売上は58万枚を超えていた。いやこれ狙えば単独ミリオンいけるかも、となるのも道理である。金曜日にはSixTONESのMステ単独出演もあったのだ。

 

初動3日(1/20〜1/22、月曜日、火曜日、水曜日)の売上に関するBillboard速報記事‪↓

www.billboard-japan.com

 

まあ、その後の福岡公演のMCレポから察するに、本人たちは合算ミリオンのつもりで言ったのだろう。初週どころか、木曜日が終わったときには、オリコンの集計でも合算ミリオンなんてかるがる超えてしまっていたけど。

 

1/23(木曜日)いっぱいまでのオリコン集計で合算ミリオン超えたよという記事↓

www.oricon.co.jp

 

ただ、本人たちの意向が合算ミリオンと判明したところで、ファンの勢いは止まるものではない。正直単独初週ミリオンは厳しい数字だけど、目指し始めてしまっていたので、そう簡単に目標を変えることはできない。在庫と財布と人員の情報戦が始まった。店舗は基本的に完売していたので、まだ在庫のある店舗に関する情報が流れ続けた。オリコン集計やBillboard集計に間に合うネットショップの情報も行き交った。ファンが勝手に単独ミリオンを目指して勝手に熾烈な戦いを繰り広げていた。

(私は「オンラインゲームの大会の決勝では両者躊躇なく課金するので、課金額や技術よりも通信速度が勝敗を左右する」という話を思い出していた。)

 

もちろん、スト担でのこの動きは(あくまでも主たる敵は単独ミリオンおよびBillboard JAPANであるとはいえ)Snow Manが意識されているし、スノ担側でもSixTONESが意識されていただろう。スノ担の方々がどんな考え方をしているのかは私は知らないけど、スト担は、少なくとも私視点では、Snow Manは関係なく、 SixTONESBillboard JAPANのチャートのトップ(ではなくともできるだけ上位)を取らせたい。しかしSixTONESSnow Manはかなり競っている。相手を抑えないと上には行けない。否応なしに相手方が抑えるべき対象となるのだ。

このことは両者よくわかっていたと思うし、だからこそ争いが激化し熾烈を極めた。互いに互いをわかりやすい指標として見ながら、できるだけ多くの項目で相手を抜き去ろうとしていたのだ。

Billboardの集計期間終了ギリギリまで争いは続いた。福岡公演の物販はグッズよりもCDの列の方が長かったと聞くし、TLは0時に近づくほどに速度を増していった。そして集計期間終了の0時を超えたとき、TLは完全に疲弊していた。

 

 

1/25(土曜日)のBillboard JAPANの記事で、スノストの売上推移が比較されている。

 

これ‪↓

www.billboard-japan.com

 

この記事の中では、スノスト、嵐のBRAVE、King & Princeのシンデレラガールの売上推移が比較されている。(しかし作り方のよくないグラフなので担当者はあったかいご飯を食べてゆっくりお風呂に入ってしっかり寝てほしい。)これによると、1/24(金曜日)までのSixTONES単独の売上は68万枚を超えたらしい。

記事の後半部分では、ざっくり言うと「CDセールスのみならず様々な指標において、SixTONESSnow Manの順位が毎日目まぐるしく入れ替わっている」みたいなことが書かれている(超ざっくりなので、できれば元記事を読んでください)。また、「この事からも同時デビューし、競い合う事が良い結果に結びついているようだ。(こちらは原文まま)」という記述もある。

いやまあ、まあそうなんだけどさあ…。

 

 

 

ここからはあくまでも私個人の見解である。ビジネスに関してはド素人だし、全く関係のない業界に身を置いているので、こういった世界の常識なども全然知らない。このことを念頭においてお読みください。

 

これはなんとなく思っていただけのことなのだが、暗に意図されていたスノストの比較対象は、本当はKing & Princeなのではないだろうか(表立って言わないだけで、そうじゃないかと思っているスノ担、スト担の方も少なくないと思う)。

競争相手とか、キンプリに勝ちたいとか、そういうことではない。King & Princeは、後続のグループにとって、「どうしても比較されてしまう相手」である。したがって、King & Princeの直後にデビューするグループは、King & Princeと互角以上の数字を出さなければならなかったのだと思う。

直前にデビューしたグループで、誰も文句を言わない売れ方をしていて、非ジャニオタにも「今のジャニーズといえばKing & Prince」という認識の方もいる。シンデレラガールでは、オリコンの集計において初週57.7万枚を売り上げた。CDが売れないこの時代ではとんでもない数字である。その後も勢いは衰えることなく、2nd、3rd、アルバム、と順調に売上を伸ばしている。

そんなグループの後のデビューだから、半端な数字を出すわけにはいかない。嵐も休止を控えている中で、次のデビューでコケたら大変だ。スノストなら、オリコンの集計で2グループ合算にしてしまえば確実にシンデレラガールは超えるだろうし、今後使われるのはその合算の数字である。シンデレラガールを軽く超える数字は出たよ、まあ合算だから個別のグループで比較したときはわかんないよね(ウフフ)、といった具合に、インパクトのある数字を出しつつ、King & Princeとはなんとなく違う土俵に持っていきたかったのではないだろうか。ものすごい妄想をしている自覚はある。

しかしファンの動きはそうはいかなかった。ずっと前にメンバーが言及していたこともあったし、それに加えて、合算にされてしまうなら、と即座にBillboardへ目をつけた。

 

運営側が意図していた戦場は、おそらく主にオリコンのランキングだと思うのだが、「ファンが勝手に」Billboard JAPANのチャートで戦争を始めてしまった。すなわち、ファンがここまで疲弊したのはファン自身の責任である。だって誰もBillboardで戦えなんて言ってないし、黙っててもおそらくオリコン週間ランキングではトップを取った。合算なら、特に何もしなくても、King & PrinceどころかKAT-TUNもかるがる超えただろう。運営側は、まさかファンが勝手にBillboardで戦い始めるとは思ってもいなかったのではないだろうか。

 

とはいえ、ファンの性質を考えれば戦争になってしまうのも当然である。スノ担の方々はよくわからないのだが、スト担はおおよそにおいて気が強くて負けず嫌いで行動力がある。正直、合同デビューでここまでの数字が出たのは、今回のデビューがSixTONESだったからだろう。母数はともかく(まあデビュー直後のグループとしては少ない方ではないだろうけどそれはともかく)、ファンの気がとにかく強いし数字にうるさい。身を削って数字を叩きつけていく民族である。

それに、デビュー発表から発売までに、要所要所で競い合いを意識させられていたことも、スト担(もしかしたらスノ担も)の競争意識に火をつけていたように思う。競い合わせるイベントが頻発するのに、肝心のCD売上が合算とはどういうことだ。こちらの戦闘意欲は日に日に高まっている。その戦闘意欲がBillboard JAPANにおける戦いに流れ込んだ節がある。

 

 

数字だけ見れば、今回のこのイベントは大成功であると言っていい。だって、SixTONES単独で見ても、Billboardによるとフラゲ日だけで47万枚に到達しているのだ。週間では77万枚を超えたらしい。オリコンでも、デイリーランキングで出てきた毎日の推定売上枚数を全部足して2で割ると、まあ週間66万枚程度にはなっている。単独初週ミリオンは無理だったけど、十分化物みたいな数字である。

 

Billbord JAPANの集計でSixTONESの初週売上が77万枚超えたよって記事↓

www.billboard-japan.com

 

しかしファンは疲弊した。まあ疲弊したのは自分の責任である。勝手に戦争を始めて勝手に疲弊しているだけだ。

ただしおそらく、同じ売り方をしたら他Gのファンも同じ状況に陥るのではないかと思う。競争する気がなくても、隣に公式の競争相手がいたら意識してしまうだろうし、何しろここまで大きい話なので、他G担の方々もおそらく戦い方を知ってしまった。前例ができてしまったのだ。しかしファンダムによっては潰れてしまうだろう。

気が強くてたまたま結束力もあり、メンバーからの福利厚生が死ぬほど手厚いスト担でも、かなりギリギリのところで立っていた。何かの運が少し悪ければ崩れていたかもしれない。もう一度同じことが起きたら戦い切れるかどうかは怪しいというか、多分無理だと思う。

 

 

合同デビューは今回ギリギリの状況で成功したと言える。しかし二度とやりたくない。私からは以上です。

自担って何だ

私はアイドル文化の外から来た人間である。

 

まあそう言ってしまうと、ドルオタはみな最初は外から来た人間ではあるけども、ここでは「他界隈を長年渡り歩いていた人間が急にドルオタ界隈に放り込まれてしまってまだ日が浅い」くらいの意味合いでいきたいと思う。

 

他界隈を長年渡り歩いていた人間が急にドルオタ界隈に放り込まれた経緯はこちら↓

coldginger.hatenablog.com

 

このブログを書いているちょうど1年くらい前、唐突にKinKi Kidsに出会い、その後すぐにSixTONESに落ちた。それ以前は「アイドルといえば男性ならジャニーズ(ジャニーズに誰がいるのかはほとんど知らない)、女性アイドルはなんかすごい人数のグループがあるらしい」程度の認識だった。まあ要するに興味が皆無だし、アイドル文化なんて微塵も知らない。二次元界隈には長年頭までがっつり浸かっていたけど、アイドルコンテンツには一切手を出さなかった。

 

そういう、アイドルに全く馴染みのない人間が急にドルオタ界隈に(何らかの力によって)放り込まれて、一番戸惑ったのが自担という文化である。

 

一番最初に出くわした自担の壁(壁?)は、KinKi Kidsのファンクラブに入会する際の「好きなアーティスト」欄。(キンキに出会って確か1ヶ月以内に入会している。)「なんで『2人』とか『KinKi Kids』とかって選択肢がないの!?」と混乱した。私はKinKi Kidsが好きでKinKi Kidsのファンクラブに入会しようとしているのに、更に好きなアーティストを選ばせるとはこれいかに???KinKi Kidsに決まってんだろ。

グループの中の特定の誰かを特に推す、担ぐという発想がなかったのだ。ファンクラブ入会以前も、キンキ担のお姉様方を何人かフォローはしていたけど、私が観測した範囲においては、キンキ界隈はそもそも自担という概念が比較的薄い。2人が2人の空気感で一緒にいるのを遠巻きに見るのが好きな人か、アンリーかに二極化している気がする(マジ私感)。そんなだから、「好きなグループ内の特に誰かの」担当になるという状態が全く想像できなかった。言うなら、箱推し(誰にも寄っていない)以外の状態がわからない、といった感じだろうか。

まあその場は「堂本剛」を選択して乗り切った。KinKi Kidsを見つけたきっかけが剛くんのファンクだったからである。

(まあアイドルじゃないアーティストのファンクラブでも、誰か1人を選ばせるものもあるかもしれないけど、いかんせん私がファンクラブに入ったのはキンキが初めてだった。)

 

その後ジャニーズ沼の広さと深さを察して、様々なジャニオタ界隈を覗くうちに、担当制度というものを「こういうものなんだ」となんとなく認識することはできた(まだピンと来てはいない)。それと同時に察したことがある。

私、箱推ししかできない人種なんじゃね?

今のところ嫌いなジャニーズタレントはいない。よく知らない人はいるけど、誰にでもある程度以上のファンがついている以上、絶対に何らかの魅力はあるのだろう。ある程度以上知っているタレントに関しては、全員についてある程度以上の好感を持っている。

しかし、「好き」と「推せる」「担げる」は別の話である。便宜上「推せる」「担げる」を「好き」と表現することが多い。しかし、別に推したり担いだりしてなくても好きなものは好きだし、逆に、好きであっても推したり担いだりできるとは限らない。

更に、推したり担いだりできるかという基準が、私の中ではどうやら「グループ自体を好きになれるか」というところにあるらしい。今のところJr.含めて嫌いなグループはない。しかしこのグループを好きになるという条件が、

・メンバー全員個人としてかなり好き

・メンバーの関係性が好き

・グループのコンセプトと方向性が好き

・組織として信頼できる

・パフォーマンスが好き

・音源が心地よい

・曲が好み

などなど、ザッと挙げただけでも大分多くてハードルが高く、総じて「グループそのものとグループがやっていることが好きになれる」というところに帰結する。私は恐らくグループへの入り口を箱に見出す人間である。そのグループを発見するきっかけは個人であることも多いけど、実際に落ちるきっかけは箱になる。

そういう性質を持った人間は、KinKi Kidsの次にSixTONESに落ちた。

そこで再び担当制度の壁である。SixTONES界隈は比較的箱推しが多い気がする。しかし私の観測範囲に限れば、KinKi Kidsに比較するとやはり担当文化の色が濃い。「誰寄り箱推し」「誰担箱推し」を名乗り、箱で推した上で個人の担当がいる方が多い印象である。

SixTONESに落ちて少し経ったくらいに、結構前に作って放置していたツイッターアカウントをジャニーズ用に改装した。SixTONES界隈の方々との交流の始まりである。当然「自担は誰ですか?」と質問されることも多い。

しかし私は未だに担当制度がピンと来ていない。正直に「外から来たばっかりなもので、担当制度がよくわかっておりません 現状箱です」と答えていた。

というか今でもよくわかっていない。担当制度ってなんだろう。自担って何だ?

 

ジャニオタ界隈では、自担というものは結構当たり前の概念というか、「日本人ならだいたいみんな文字が読める」みたいな認識なのかなと思うことがある。普段全く意識はしないけど、日本において出会う人はだいたい文字が読める、と恐らくほとんどの人が無意識に思っているだろう。なんていうかそういう扱いなのかな、みたいな。私は文字が読めない側の人間である。ジャニオタ界隈で、だいたいのオタクは自担を持つという認識を、だいたいのジャニオタが無意識に持っている。私はピンと来ないまま、自担って何だ?と考えている。

そんな状態で何ヶ月も自担を定めずにフラフラしていたのだが、様々な方の自担への扱いや様々な方がとっているアンケートを見ると、一口に自担と言っても、自担として決める理由は人によって千差万別である、ということがわかってきた。様々な方が様々な理由で様々なタレントを自担にしている。すごい文化だ。

ジャニオタ界隈に身を置く以上、自担は定めておいた方が何かと便利である。ペンライトは自担の色にしておくのがスタンダードだし。とりあえず私は自分を髙地担として定めた。

 

別にSixTONESの中で髙地さんが一番好きだというわけではない。6人全員別ベクトルで好きだし、互いに比較対象ではない。

しかし髙地優吾越しに見るSixTONESがとんでもなくかわいいことに気が付いてしまった(これは割と多数の方から賛同を得られるのではないかという自信がある)。かわいいし、なんか活きが良いし、自然体に近そうで、程よく力が抜けてる感じ。そして髙地優吾の安心の安定感とフラットな立ち振る舞い。グループ全体を見る際の視点として、最高に心地良いメンバーである。視点が安定していると全体が見やすい。

私は自担を決める前から髙地担として認識されている節があった。恐らく髙地さんを中心としてSixTONESについて喋ることが多かったからだと思う。まあかわいいんだから仕方ない。というか、周りの方々に髙地担と認識されてそうだから髙地担を名乗ろうと思ったという面もちょっとある。(あと自分が髙地さんと同い年だからというのもちょっとある。)

 

そんなこんなで私は自担を決めたわけだが、こういう担ぎ方をする方も結構いらっしゃるのだろうか。決めたはいいが、私はまだ自担というものが何なのかはよくわかっていない。自分だけの定義で、自担とは、を決めても良いのだろうとも思うけど、できればオタクの方々1人1人に聞いてまわりたい。あなたの自担は誰ですか?自担である理由はなんですか?自担に決めた経緯を教えてください。あなたにとって自担とは?あなたの中の自担の定義は?アンケートとろうかな。そのときにはよろしければご協力ください。

 

何年か経ってもドルオタをしているかどうかはわからないけど、とりあえず今はドルオタでいる気でいる。そのときには私の自担の決め方も変わっているかもしれないし、恐らく今と変わらず、自担って何だ?とぼんやり考え続けている気もする。